「文芸思潮」51号・座談会に東京新聞「大波小波」で応対
東京新聞9月2日夕刊文芸コラム「大波小波」で、文芸思潮51号(アジア文化社)の座談会「80年代の批評と文学」(出席者=井口時男、川村湊、菊田均、富岡幸一郎、三田誠広)を辛口で批評している。その要因のひとつが、座談会のなかで「絶対何か『大波小波』あたりで出そうだよね」(富岡)というのがあるので、「ご期待に沿えたかな」(山椒魚)ということだ。
この座談会は1980年代から文芸批評の存在が分散し、文壇的な文学の世界は転換していく様子が語られている。出てくる言葉は、ポップカルチャーの隆盛からサブカルチャー時代に、評論家の江藤淳の死がマルクス主義思想の葬送時代への移行を示したこと。文芸評論のエリアが広くなり拡散してしまい、中上健次や竹田 青嗣など、民俗学や哲学からの文芸批評への進出がはじまった頃が話し合われている。
評論の対象としての共通性が失われてくると、できるだけ話の通じる範囲の広いものでないと出版商業的に成り立たない。読者の少ないジャンルに入ってしまうと、その評論を雑誌で取り上げにくくなる。しかし、哲学というのは、データーベースが広いから、文芸と結び付けば活躍できる余地があったらしい。柄谷行人、三浦雅士などのあと、大塚英志、東浩紀がサブカルチャー文芸評論にあらわれたけど、評論の対象が流行ものなので、変遷がはげしい。社会的には、1ドルで円が150円を切ったというので騒いでいた。企業がコンピューター導入でスクラップ・アンド・ビルドで体質転換。日航機事故、スペースシャトルが爆発し、チェルノブイリ原発事故。昭和天皇崩御で、全国民が喪に服し、商店街が灯を消した時代。まとまりのない時代になって、ポストモダン時代を実感させられることになる。
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コメント
┐(´д`)┌ヤレヤレ「大波小波」さんの文芸批判は、最近の文芸評論家は、専門用語を平易な日本語に噛み砕いて説明できるほどに日本語に長けてないということだろう。
書いていることの半分は仲間内だけに通じる専門用語で書かれている、専門用語でしか文芸を語れないのでは、一般新聞社が原稿依頼できるわけがない。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
文学の不振は、文芸評論家の日本語の劣化、未熟化によって引き起こされていることを、文芸評論家は気ついてないことによるだろう。
つまり、文芸評論が大衆や一般市民から見放されている現状が、文学の不振現象を顕在化したことに、気つくべきなのに、「作品が低レベルなのはマスコミが悪いからだ」と文芸評論家が居直っている現実をこそ直視すべきなのだ。
文芸評論家の駆使する日本語の劣化、評論における専門用語の氾濫が、一般の文学愛好者を遠ざけていることを、一線の文芸評論家はもう少しじかくしてほしいのだが・・
小林秀雄時代の文芸評論家が偉大だったのは、日本語にすぐれていたことだった。
しかし、現在の評論家は横文字多様の理屈が達者なだけだ。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年9月 5日 (木) 00時46分