時代に流されて~外狩説話とキャラクター世代
なんと暑い夏だろう。若ければともかく、こうなると干からびてしまいそうだ。なんでいま、自分がここにいるのか、自分の存在の位置がつかめない。おそらく多くの人々が時に流されて漂流しているのであろう。やって来る人よりも去る人の多い日々に慣れ、「おれが…、おれが…と」互いに自慢を言い合う友を喪うことの意味を噛みしめて、前向きに暮らすふりのわびしいこと。そんな成り行き任せの自分の精神とは対照的に、妙にはっきりとした航跡を記す男が現れた。それが≪「詩人回廊」の外狩雅巳の庭≫である。記されたものは飛躍し記号化されてはいるものの、同い年で、お互いにその存在を知らずに時代にのまれ流されていたらしい。しかもその航跡を見ると、折に触れ交差し、行き違ったところもあったようで、そういえばと、私の記憶を呼び戻してくれるものがある。
このような同時代ながら異なる境遇にある者を結びつけた偶然の素は、お互いに「表現」というエリアに入ったからである。外狩氏は自分を文学の世界にいると思っている。それは間違いないのだが、私はそれを「表現のビジネス」の世界に連ながる損得勘定の視点を使ってみたい。
そこで、これまでの外狩氏のネット上での活動をもってキャラクター化してみた。現在それを冊子にまとめた「外狩雅巳の世界2013ガイド」という冊子発行にとりかかっている。≪参照:文芸同志会のひろば≫
私が感心したのは、彼がプロレタリア文学の手法を学んで、それをきちんと創作に援用し、実践していることである。同時に作家としての自画像イメージが演出できていることである。それがキャラクターになっている。
この「キャラクター」については必要に応じて述べてみたいが…。なんでも村上春樹は小説本の発売前に予約した人が、6万人以上いたとか。読者は読まない前になぜそれが素晴らしい小説であることを知ることができたのか。これが作家としてのキャラクターの承認以外なにものであるというのであろう。「キャラクターの承認」という観念を言い出したのは、おそらく東浩紀ではないかと思う。
東浩紀+桜坂洋の「キャラクターズ」という作品を書いている。その概要は≪「詩人回廊」東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』で読む日本文学の傾向と対策≫に記している。
東は、一時期に現代の人間関係のあり方として、キャラクター化による相互承認のしやすさを評価していた時期がある。現在、東浩紀もまたキャラクター化して活躍していることは、ゼロ世代の生き方の指針である可能性があるのかも知れない。
| 固定リンク
コメント