時代に流されて~外狩説話と文化批評
万年筆がペン先がなんで出来ているか、書き味はどうか、インクは長持ちするかなどの性能、機能を説明しないで、大橋巨泉が「はっぱふみふふみ」と言って、「わかるね」という。わかるはずがない。しかし、文房具屋には子供が「はっぱふみふみ」を下さいとやってきたという。
商品の宣伝において革命的であった。性能、スペックで商品の良さを説明しないでも、売れるようになった。販売企画マンやコピーライターにとって、表現の自由度が増した。たかが一時的な流行と受け取るのは自由であるが、それが時代の空気である。時代の空気は、それに沿って生きる大衆の環境を変える。余談だが、今は国際社会での空気が変わってる。従来、それほど問題にされなかったことが、問題視されるようになっている。安倍総理や橋下知事のような発言は従来は、黙殺されてきた。メディアの発達で、情報が世界に伝わるようになり世界の空気が変わったのではないか。なにかが変わる時にはまず、ナンセンスな感しからはじまるような気がする。
≪「詩人回廊」の外狩雅巳の庭≫のような境遇もある。このなかで、外狩氏の奥さんが純文学作家を目前に、コピーライターの転向したのも頷ける。小説を書いた場合、出版社の編集者は、いろいろ吟味検討する。時間がかかり結論がなかなかでない。ところが、コピーライターは、スピードが勝負だ。結論がすぐ出る。クライアントが気に入れば、すぐ採用される。一つが済めば次がくる。この時期、印象に残っているのは、骨なしくたくたぬいぐるみを景品にし「ぼくちゃんくたくた」を考えたコピーライターが、疲労で自死してしまったことだ。栄養ドリンクを飲んで頑張った。頑張れば報われたような気がする。いまは「頑張っても報われない」という空気だ。当時は「宣伝会議」や「広告批評」が業界をリードした。糸井重里などはセンスで生き残った珍しい現象であろう。これらがハイカルチャー、ローカルチャーという分類で、文化批評を形成していたが、現在ではサブカルチャー批評が盛んになっている。人間は自分はだれで、どこにいるかを問いかけずにいられない。そのため仮説をつくってそこでの自分の立ち位置を確認しようとするらしい。批評というのは、それが正しいかどうかではなく、そういう問いかけがあったこと,そのものが時代の表現なのだ。
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コメント
サヨーナラー(_´Д`)ノ~~外狩さん、作品集送っていただいて、どうも。地道に頑張ってますね。
活動もいいですが、作家は作品勝負ですから、力作期待してます。(/ ^^)/アリガトネ
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年9月 1日 (日) 04時20分