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2013年8月31日 (土)

瀬戸内寂聴(91)小説をうんと読んで、情緒を養って

 〈「生きることは愛すること」。高校生から寄せられた質問に答えた問答集のタイトルには強いメッセージと願いがある〉
 だれも好きにならないで、だれにも好かれないで、一生を終わるなんていうのは、つまらないじゃありませんか。「いったい、なんのために生きてきたの?」と思いますよ。傷ついてもいいから、誰かを好きになって、誰かに愛された経験がある方が、ずっと生きがいがある気がします。やっぱり、小説をうんと読んで、情緒を養って、「何が愛か」ということを真剣に考えてくれたらいいと思います。
 〈「ぱーぷる」というペンネームでケータイ小説を書いて話題に。インターネットにも早くから注目し、現在、電子書籍化した著書は9冊を数える〉
 私は何でも早すぎるんですね。もっと早く電子書籍が売れると思っていたんですが、2年くらい世間の方が遅れた感じ。この流れはもう仕方のないことで、必ず電子書籍の時代がきます。長い歴史をみれば、印刷技術だってどんどん変わってきたでしょう? 源氏物語の時代なんて、作品を一つ一つ、墨で写していたんですから。でも、今は電子書籍の源氏物語だって出ている。変わるんです、世の中は。
 〈最近は短編にも凝っている〉
 いわゆる掌(たなごころ)小説です。とても楽しんで書いているんですよ。少し書くと、(原稿用紙で)30枚くらいにはすぐなってしまうんですが、削って削って、短くする。それがとても楽しい。それでもまだ7枚か8枚くらいで、そこからさらに3枚半くらいにまで削る。…どんどん削って、そうしたら思わぬ最後の一節が出てきたりする。これはもう、小説家の最後の道楽だと思います。
 〈「群像」8月号で新連載の私小説「死に支度」がスタートした。今春、長年支えてきてくれたスタッフが身を引き、若手に代替わり。大きく変化した自らの身辺をつづる。今も時折徹夜するというエネルギーはどこからくるのか〉
 何がそうさせているのか、自分でもよくわかりません。僧侶としての仕事は義務ですが、書くことは道楽。疲れてもこんな楽しいことはありません。≪作家・瀬戸内寂聴(91)(5)書くことは最大の道楽
(産経ニュース2013.8.30 [話の肖像画]より)

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2013年8月30日 (金)

文芸時評8月(東京新聞8月29日)沼野充義氏

小山田浩子「穴」日常に幻想味漂わせ/西加奈子「舞台」読みやすいが表層的
≪対象作品≫
小山田浩子「穴」(新潮)/西加奈子「舞台」(群像)/新庄耕・すばる文学賞受賞第一作「オッケ、グッドジョブ」(すばる)/中納直子「おにんぎょさん」(群像)/評論・高澤秀次「金石範論―『在日』ディアスポラの『日本語文学』」(文学界)。

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2013年8月29日 (木)

「地を這う虫たち」  新倉葉音~~~~~江素瑛

「詩人回廊」詩流プロムナードに移行しました。 「地を這う虫たち」  新倉葉音

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2013年8月27日 (火)

時代に流されて~外狩説話と文化批評

 万年筆がペン先がなんで出来ているか、書き味はどうか、インクは長持ちするかなどの性能、機能を説明しないで、大橋巨泉が「はっぱふみふふみ」と言って、「わかるね」という。わかるはずがない。しかし、文房具屋には子供が「はっぱふみふみ」を下さいとやってきたという。
 商品の宣伝において革命的であった。性能、スペックで商品の良さを説明しないでも、売れるようになった。販売企画マンやコピーライターにとって、表現の自由度が増した。たかが一時的な流行と受け取るのは自由であるが、それが時代の空気である。時代の空気は、それに沿って生きる大衆の環境を変える。余談だが、今は国際社会での空気が変わってる。従来、それほど問題にされなかったことが、問題視されるようになっている。安倍総理や橋下知事のような発言は従来は、黙殺されてきた。メディアの発達で、情報が世界に伝わるようになり世界の空気が変わったのではないか。なにかが変わる時にはまず、ナンセンスな感しからはじまるような気がする。
「詩人回廊」の外狩雅巳の庭≫のような境遇もある。このなかで、外狩氏の奥さんが純文学作家を目前に、コピーライターの転向したのも頷ける。小説を書いた場合、出版社の編集者は、いろいろ吟味検討する。時間がかかり結論がなかなかでない。ところが、コピーライターは、スピードが勝負だ。結論がすぐ出る。クライアントが気に入れば、すぐ採用される。一つが済めば次がくる。この時期、印象に残っているのは、骨なしくたくたぬいぐるみを景品にし「ぼくちゃんくたくた」を考えたコピーライターが、疲労で自死してしまったことだ。栄養ドリンクを飲んで頑張った。頑張れば報われたような気がする。いまは「頑張っても報われない」という空気だ。当時は「宣伝会議」や「広告批評」が業界をリードした。糸井重里などはセンスで生き残った珍しい現象であろう。これらがハイカルチャー、ローカルチャーという分類で、文化批評を形成していたが、現在ではサブカルチャー批評が盛んになっている。人間は自分はだれで、どこにいるかを問いかけずにいられない。そのため仮説をつくってそこでの自分の立ち位置を確認しようとするらしい。批評というのは、それが正しいかどうかではなく、そういう問いかけがあったこと,そのものが時代の表現なのだ。

 

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2013年8月25日 (日)

同人誌時評(7月)「図書新聞」(2013年08月17日)たかとう匡子氏

題「反詩のなかの私人像がさわやかな息づかいのうちに実現」
≪対象作品≫『スーハ!』第10号(よこしおんクラブ)「新井豊美、その不在を抱き寄せて」特集より長女きょう子さんの対談・「新井豊美書誌」、『タクラマカン』第50号(タクラマカン文学同人会)「50号特集」、『佐賀文学』第30号(佐賀文学同人会)「30号特集」より下川内遙「敗戦後の闇の中で」、『文芸中部』第93号(文芸中部の会)より本興寺更「摺師」、『白鴉』第27号(白鴉文学の会)より丸黄うつぼ「青いぷにゅぷにゅ」
詩と俳句省略。
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2013年8月24日 (土)

時代に流されて~外狩説話とサブカルチャー

  「引きこもり」というと、戦後世代には、単なる弱気、怠け者という理解しかできない。それが宇野常寛によると、1995年以降、ゼロ世代は、親のいうことに従って、世のために何かをしようとすると、オーム真理教のテロ、9・11テロのように誰かを傷つけてしまう。行動しても無駄だ。迷惑をかける。引きこもって何もしない方が良いーー、という雰囲気がでて、それがアニメ「新世紀ヱヴァンゲリヲン」の物語設定に影響しているーーというのだ。
  その後は、「でも、周りの状況が変で、悪いからといって何もしないわけにはいかない。その状況を認めたうえで、世の中に打って出よう。たとえ他人を傷つけようとも、戦って勝ちぬいてやる」という精神を反映させたのが「バトルロワイヤル」や「デスノート」で、これを決断主義と称している。――世相の反映としてのサブカルチャー解釈である。
雑誌「文学界」2013年9月号に第149回芥川賞受賞記念エッセイとして、「傷つくことと傷つかないこと」を藤野可織が書いている。曰く「粗雑であるよりも鋭敏であることが、無神経であることよりも神経が繊細であることが、気付かないよりも気付くほうが、傷つかないよりも傷つく方が、尊重されてきたような実感がある。」――まさにここにゼロ世代の価値感が見られるのだ。サブカルチャーの動向の反映とよめる。
 では、日本的な本カルチャーというようなものは、いつどこで生まれたのか。それが、いまメディアを騒がせている藤圭子の時代だと思う。(十五 十六 十七と/私の人生 暗かった)~いつの時代でもこの年ごろは自己否定の不幸意識が生まれるようだ。私自身、そういや、そうだったな、と思う。長男で家に金を入れないと家計が成り立たなかった。しかし世間では親のスネをかじっているとみられていた。学校を休んで父親を手伝った。学校は先生の温情で、中学も高校も卒業できた。それでも全部暗いかというと、そうでもない。あんがい呑気で、自由さがあったような気がする。家の事情を優先するから、友達と付き合いがない。もとから仲間はずれになる立場であった。こちら≪「詩人回廊」の外狩雅巳の庭≫のような境遇もある。<夜間高校も無事卒業し21歳で國學院大學二部に入学しました。前途に夢を抱きました。>とある。私も同い年で21歳、1963年に法政大学第二経済学科(夜間部のこと)に入学している。大学の費用はアルバイトで稼ぎ、家にも全を入れていた。大学紛争などものともせず、学問してやると意気込んでいた。同時代のエリートに柄谷行人がいたようだ。NAMとか、地域通貨Qなどいう社会実験をしはじめる。、『トランスクリティーク カントとマルクス』という厚い本がある。私は読んだ。彼のスタイルの継承を志したのが東浩紀だといわれている。
 藤圭子のデビューした昭和44(1969)年は、断絶の時代といわれた。大橋巨泉の年であった。「お笑い頭の体操」や禁「11PM」の司会者をした。そして、このCMが放映された1969年に始まる「前武巨泉のゲバゲバ90分」の司会をした。そして宣伝業界に革命を起こした。パイロット万年筆のTVコマーシャルで、「みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ」といったあとで、巨泉は「わかるネ?」というのをやった。その後、植木等が「なんであるアイデアル」をヒットさせた。この時代に日本特有のカルチャーが生まれたと思う。

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2013年8月23日 (金)

文芸同人誌評「週刊読書人」(2013年08月09日)白川正芳氏

  ≪対象作品≫笹田隆志「精三老人のねぶた」(「北狄ほくてき」・362号)、「女人随筆」129号より田辺順子「小さな命へ-バッタ君よ-」・「一二八号合評記」、ふじみちよの連載「わたしの社会人生活」(「文海」368号)、「まんだら」(東北芸術工科大学東北文化センター編集・発行)52号より関野吉晴と田口洋美の対談「日本人はどこから来たのか?」・「フィールドワークの現場から 阿仁集落調査と前田村文書調査」、尼子かずみ「坊守の四季 俳句は他力」(「樹林」582号)
 江尻美也子他13名「凛の出発 新しい展開をめざして」(「凛」創刊号)、難場田節子「つばめ」(「遠近」50号)、野見山潔子「台地からの風」(「火山地帯」173号)、北沢佑紀「通達アルファ」(「四国作家」45号)、青井奈津「今日のごみは何ですか」(「火涼」66)、青江由紀夫「銀次郎の日記」(「山音文学」123号)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2013年8月22日 (木)

大河内昭爾さんのことなど

 東京新聞8月21日「大波小波」に「食と人を愛した文人」として、大河内昭爾さんが鬼籍に入られたことから、その功績がかたられている。剣道の有段者で「五輪書 (原本現代訳)」があり、武道の専門家には評価が高い。
 朝日新聞には、大河内昭爾(おおこうち・しょうじ=文芸評論家・武蔵野大名誉教授)が15日、腎不全で死去、85歳。雑誌「文学界」の同人誌評を担当。「季刊文科」の編集委員、1988年から96年までは武蔵野女子大(現・武蔵野大)学長も務めたーーとある。
 多くのファンには、それぞれ思い出と感慨があるのではないだろうか。自分は浅いものしかなく、現在の「全作家協会」がまだ「同人雑誌作家協会」であったころに、当時の大類会長の指名で、1期だけ理事をしていて会合でお会いしていた。当時からジャーナリストであったが、とくにそれは表に出さなかった。その後、同人誌「婦人文芸」の50周年記念の会合に参加したことがあった。たしか大河内氏と白川正芳氏、豊田一郎氏、菊田均氏と同席した。その帰りに共連れになって、お茶でもしますか、という前に、たまたま奥さんの体調が悪く、買い物をたのまれてね、とデパート前で別れた記憶がある。この記憶は、去年自分が、家の者のかわりにスーパーに買い物に出た時に、どっかで誰かがやっていたことのような気がするので、ふっと思いだしたからだ。その後は、お会いすることはなかった。郵便切手が送られてきて、同人雑誌の活動を知らしめてほしいというようなことが書いてあった。あとは、伊藤桂一先生から体調のすぐれないことを伺うだけであった。雑誌「文学界」の同人誌評の担当されていた晩年は、作品評は少なく、出来るだけ多くの同人雑誌を読んで、作者名を誌面に取り上げようという意図が強くでていた。「良いものを書いた」という作者の承認を優先していた。自分も結局はそいうことなのだと納得していたものだ。

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2013年8月21日 (水)

第26回中部ペンクラブ文学賞に猿渡由美子さん

 中部ペンクラブ主催の第26回中部ペンクラブ文学賞に猿渡由美子「風の訪れ」(「じゅん文学」第71号掲載作)が選ばれた。作品は、雑誌「中部ペン」第20号に掲載されている。
中部ペンクラブの動向は「あいちウェブ文学館」に発信されている。


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2013年8月20日 (火)

鶴川健吉さん「小説は先が見えない。簡単に納得できない」行司3年半余り

作家・鶴川健吉さん 行司の経験3年半余り
 相撲の行司修業をする若者を描き、芥川賞候補にもなった作家の鶴川健吉さん(31)の『すなまわり』が、文芸春秋から刊行される。
 おそるおそる土俵で声をあげ、はだしで動き回ってかかとがひび割れる。若者たちの汗が目に浮かぶような異色作は、賞こそ逃したものの、「見たものを見たように、感じたことを感じただけ過不足なく書けるのは、りっぱ」(山田詠美さんの選評)などと評された。
 テレビで相撲を見るのが好きで、中学時代は授業中、ノートの余白に力士のしこ名を書き、家でスクラップを作った。背が伸びなかったため力士ではなく行司を目指し、高校を中退して相撲界に入門。「式守健太」を名乗る。
 「でも、将来が見えるような気がした」。3年半余りで行司をやめ、大検を受け大阪芸大に入学。卒業後はコマーシャル製作や映画の撮影現場、温泉旅館などの仕事を転々とし、2010年に文学界新人賞を受賞してデビュー。 「小説は先が見えない。簡単に納得できない」。アルバイトの傍ら執筆を続けている。(2013年8月20日 読売新聞)

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2013年8月19日 (月)

時代に流されて~外狩説話とゼロ世代の想像力

  手帳がないので、家で失くしたと思っていたが、どこを探してもでてこない。どうも外をほっつき歩いていた時に、胸ポケットから落としていたのに気付かなかったらしい。そうであると、それはだいぶ前だ。間抜けなわが身に嫌気がさして、やる気も失くしてしまった。だが、きょうの新聞に亀山郁夫氏が、ある人の座右の銘の言葉を記していた。「永遠に生きる者のごとく学び、明日死ぬ者のごとく生きる(ガンジー)」というのだ。なるほどと思い、またすこし調べて勉強してみた。
  人間の社会全体の流れというのは、実際には目に見えない。それなのに時代に合うとか、遅れるとか、まるで何かが実際にあるように考えてしまう。人は、ついつい、先のことを考えて何かよい対応をしようとするのだが、いつも何の考え浮かばず、また今度にしようと思い、先送りをしているのが常なのではないだろうか。いや、これはわたしだけの、話かも。しかしそれも、頭のよい人が、先のこと考えると、いろいろ目に見えないものが思想となり、時代の流れのようなものがあることを教えてくれるのだ。そして、我々はその流れに巻き込まれているらしい。
  ≪「詩人回廊」の外狩雅巳の庭≫には、そうした先人の社会思想を学んだ経過が記されている。彼が18歳の時に、わたしもそうであった。その1960年には、社会党の浅沼委員長がテロルで刺殺された年だ。まもなく東京オリンピックが開催されるというので、町の区画整理が始まっていた気がする。この時期はマルクス主義思想があって、社会は歴史的に発展する仕組みになっていて、段階を踏んで、より良い社会になっていくと信じられていた。マルクス主義には、ものごとを解釈するだけの哲学から、行動して現実を変えようという思想があった。
 しかし、1995年以降のアメリカの9・11テロ事件のあたりから、ーー技術がいくら進歩しても、結局のところ破壊され崩れてしまうではないかーー、努力しても無駄だよ。親は大人になって、なにかを成し遂げることを期待するが、そんな期待に答えたくないーーこういう気配が若者のなかに生まれ、引きこもり世代になったのではないか。この視点で、社会の姿を読もうしたのが、宇野常寛「ゼロ世代の想像力」という本であるらしい。その精神の代表的な表現物が、人気アニメ「新世紀ヱヴァンゲリヲン」なのである。パチンコ遊戯でも、碇シンジが父親の作ったロボットを操縦して、宇宙からの侵略者と戦うのはある。そのうちにシンジは父親の指示に従って働くことを拒否するようになる。成果を上げないと認めてくれないのなんていやだーーというのだな。そしてシンジは恋をする。恋人の彼女なら、成果を問わずに自分を愛してくれるのではないか。そうあって欲しい、と思うのだ。

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2013年8月18日 (日)

著者メッセージ: 波多野陸さん 『鶏が鳴く』

  どうも『鶏が鳴く』著者の波多野陸です。デビュー作です。この作品ではとにかく自分が面白いと思うことを詰め込みました。物語が持つことのできるシリアスさ、ユーモア、不可解さ、開放感、感動などなど、それらが混然一体となったものを書きたいと思ったからです。今、書いていた当時を振り返ると、ほとんどその〈詰め込んだ〉という感覚のみが蘇ります。(講談社『BOOK倶楽部メール』 2013年8月15日号より)
  ただ、僕自身、そういった試みから生まれたこの作品がある種の幼稚さを持っていることを否定しません。そうなったのは、主人公が高校生であるという内容の問題もあるでしょう。しかし、それ以上に、学問がどんどん分化 した結果、各々が極度に専門化しているのと同じように、おそらく今、小説の世界というのも専門化が進んで洗練されきった状態で、そんな中、専門的になりたくない(もしくはそうなれないほど頭のよくない)僕および僕の作品は端的に幼稚と見なされる、というのが本当のところだと思います。
  くどくどと書いてしまいました。読んでくれるだけで存外の喜び! と言いたいだけなのですが、本当に口が減らないですねえ・・・。ちなみに 『鶏が鳴く』の主人公二人の口の減らなさは僕の五十倍ぐらいです!お楽しみに! (波多野陸)

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2013年8月17日 (土)

眞人堂・丸山健二文学賞の設立について

 丸山健二文学賞宣言2013より=六十の坂を越え、おのれのことのみを考えていられるような立場にある種の負い目を感じるようになり、また、文壇なるものに汚染され、拘束されることを本能的に避けたがる、自由な若い書き手たちのなかにこの私の作品と併せて生き方に共感を覚えてくれる者がぽつぽつと現れるに至って、万難を排して腰を上げることにしたのだ。
 とはいえ、文学賞の設立にはどうしても権威の悪臭が付きまとう可能性を否定しきれないために、二の足を踏まざるを得ないのだが、しかし、もはやそんなことを言っている場合ではないと思い、意を決した。
 そして、どうせやるなら徹底してやろうと腹を括り、要するに既成の文学賞の真逆を行えばいいと考え、その通りにした。 文学関係者はとうに死んでしまっている。かれらに残っているのは、謂われなき自負心と、何とか食いつなぐための姑息な処世術のみでしかなく、それもすでに底を突きかけている。そんな死者たちには反面教師以外の何かを期待してはならない。
丸山健二文学賞宣言

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2013年8月16日 (金)

時代に流されて~外狩説話とキャラクター世代

 なんと暑い夏だろう。若ければともかく、こうなると干からびてしまいそうだ。なんでいま、自分がここにいるのか、自分の存在の位置がつかめない。おそらく多くの人々が時に流されて漂流しているのであろう。やって来る人よりも去る人の多い日々に慣れ、「おれが…、おれが…と」互いに自慢を言い合う友を喪うことの意味を噛みしめて、前向きに暮らすふりのわびしいこと。そんな成り行き任せの自分の精神とは対照的に、妙にはっきりとした航跡を記す男が現れた。それが≪「詩人回廊」の外狩雅巳の庭≫である。記されたものは飛躍し記号化されてはいるものの、同い年で、お互いにその存在を知らずに時代にのまれ流されていたらしい。しかもその航跡を見ると、折に触れ交差し、行き違ったところもあったようで、そういえばと、私の記憶を呼び戻してくれるものがある。
 このような同時代ながら異なる境遇にある者を結びつけた偶然の素は、お互いに「表現」というエリアに入ったからである。外狩氏は自分を文学の世界にいると思っている。それは間違いないのだが、私はそれを「表現のビジネス」の世界に連ながる損得勘定の視点を使ってみたい。
 そこで、これまでの外狩氏のネット上での活動をもってキャラクター化してみた。現在それを冊子にまとめた「外狩雅巳の世界2013ガイド」という冊子発行にとりかかっている。≪参照:文芸同志会のひろば
 私が感心したのは、彼がプロレタリア文学の手法を学んで、それをきちんと創作に援用し、実践していることである。同時に作家としての自画像イメージが演出できていることである。それがキャラクターになっている。
 この「キャラクター」については必要に応じて述べてみたいが…。なんでも村上春樹は小説本の発売前に予約した人が、6万人以上いたとか。読者は読まない前になぜそれが素晴らしい小説であることを知ることができたのか。これが作家としてのキャラクターの承認以外なにものであるというのであろう。「キャラクターの承認」という観念を言い出したのは、おそらく東浩紀ではないかと思う。
 東浩紀+桜坂洋の「キャラクターズ」という作品を書いている。その概要は≪「詩人回廊」東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』で読む日本文学の傾向と対策≫に記している。
東は、一時期に現代の人間関係のあり方として、キャラクター化による相互承認のしやすさを評価していた時期がある。現在、東浩紀もまたキャラクター化して活躍していることは、ゼロ世代の生き方の指針である可能性があるのかも知れない。

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2013年8月15日 (木)

「遠花火」  山崎夏代     ~~江素瑛

「詩人回廊」詩流プロムナードに移行しました。 「遠花火」  山崎夏代    ~読み人・江素瑛

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2013年8月14日 (水)

計画停電しないの?どうして電力が足りなくないのか

 暑い毎日です。図書館は満員でクーラーはフル稼働。でも一昨年、昨年は電力不足で計画停電の話が毎日のようにメディアで報道されていた。新聞・テレビ情報は、今はこんなこと言ってるけど、どれがウソなのか判るのはいつだろう、と考えながら読みとることも必要であろう。一昨年、暮らしのノートでは≪「電力売り惜しみ」をビジネスチャンスに家電店 ≫を書いていた。また、北一郎が「本当にそんなに電力が足りないか」という詩を書いていた。やはり本当は足りていたんだよね。

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2013年8月12日 (月)

文芸同人誌「海馬」第36号(兵庫県)

【「ウイスキーをくれた男」・「魚の名前」小坂忠弘】
 両方の作品とも、いわゆる散文及び散文小説の部類である。「ウイスキーをくれた男」は、街角で覚えのない男に親しげに声をかけられ、山原ですよ、と言われるが記憶にない。詐欺師かと疑ってみたりするが、その男は競馬で儲けたという札の二つ折りの塊を見せる。警戒心をもって曖昧なまま、男と別れる。そこから、作者のいろいろな記憶が呼び起こされ、その男は本当に知り合いであったかも知れず、そうではないかも知れない様子が語られる。
 「魚の名前」は、近隣にケア付きマンションが出来たというので、入居する状況にもなく、好奇心から見学にでかけ、そこから魚の名前と漢字のうんちく話になる。
 文章家による物語のない話、いわゆる散文の世界をたくみに展開する。このような物語構造のない話は、手法を意識しないと書けない。いわゆる散文精神である。<散文精神>というのは、作家・広津和郎が 昭和11年ころ説いたもので、「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、行き通して行く精神──それはすぐ得意になたりするような、そんなものであってはならない」「じっと我慢して冷静に、見なければならないものは決して見のがさずに、そして見なければならないものに慴えたり、戦慄したり、眼を蔽うたりしないで、何処までもそれを見つめながら、堪え堪えて生きて行こうという精神であります」と説いた。
 「結論をつけるということは、人間の心理的にいって、割合に易しいことである。というよりも、人間の心理は、つい結論に走りたがるものである。結論に走らずには堪えがたくなるものである」
 これらは時代のいやな空気に対して、自分の身近なところを意図的に記して、大衆のムードから一線を画す抵抗精神による手法であった。文章技術が必要で、それを再認識させるところがある。
【「ある精神病日記」山下定雄】
 彼と云う男を意識して、目立ったことをしてやろうと思い、鉄棒にぶら下がるうウンテイをするのだが、その運動の途中経過が心理描写や憶測を交えて詳しく説明される。私自身、腰痛のリハビリに、街角で鉄棒のある公園をみつけると、かばんを脇に置いて、まずぶら下がってみる。そのせいか面白く読んだ。それが精神病とどういう関係があるのか不明だが、まあ、もともと絶対に正しい精神というのが、存在するかどうかも疑問でもある。
発行所=〒657-1116兵庫県加古郡稲美町蛸草1400-6、海馬文学会。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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2013年8月11日 (日)

戦記作家・伊藤桂一氏が憲法・慰安婦問題・原発を語る=東京新聞で

 作家・詩人の伊藤桂一氏が憲法・慰安婦問題・原発について東京新聞8月11日付け朝刊で語る。≪参照:暮らしのノート「文芸」≫伊藤桂一氏の戦記小説や記録をもって、南京事件、慰安婦問題などで都合の良い引用をすることが多く、誤解を生む要因となっている。それらは、我田引水である。底流にあるのは、国民の意識への怠慢を指摘する論調である。私のサイトの見出しも本来「怠惰な国民を叱る」としたいところだが、それでは目を引かないのでこうした。「赤旗」にもぜひ取材して欲しいものだ。

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2013年8月 9日 (金)

書く筋肉、インナーマッスルについて

 このところ腰痛に悩まされて、リハビリをしているが、そのなかで筋肉が衰えを回復させるための運動がある。鍛え場所のだいたいの要領がわかったので、自己トレーニングをしている。これを意識することでインナーマッスルという筋肉が強化されるらしい。すると、いぜん何となく行っていたことをやらなくなってやらなくなったことが多くあるのに気づく。大股歩き。鉄棒ぶらさがり、腹筋などである。
 これと同じことが書くという作業にも言えそうだ。「詩人回廊」の菊間順子さんは、入会当初は、俳句や短歌のような短詩ものを思いつくまま書いたようなものを投稿してきた。スタイルができていたが、まとまったものではなかった。文才がわからないまま、編集をしていた。それが次第に長いものを書きだした。すると、文章のリズムとスピードの緩急に、並みでないものがでているようになり、この人は以前は相当の書き手あったことがわかった。書く筋肉がよみがえってきたのであろう。とくに最近は「さるすべり」の話が良い。書く筋肉インナーマッスルが動き出したのであろう。

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2013年8月 8日 (木)

【文芸月評】7月(読売新聞2013年08月03日)

小説家の半生を自問
≪対象作品≫
 大江健三郎(78)「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」(群像)/佐藤友哉さん(32)「ベッドタウン・マーダーケース」(新潮)/芥川賞受賞・藤野可織(33)、「8月の8つの短篇」(群像)/松田青子(33)「英子の森」(文芸)/藤谷治(49)「亡失」(同)。(文化部 待田晋哉)≪参照:文芸月評

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2013年8月 6日 (火)

文芸同人誌「石榴」第14号(広島市)

【「黄昏のなかの風景」木戸博子】
 イタリアのナポリやフレンツェでの旅行記。センチメンタルジャーニーとはこのことかと思うほど感傷的に描かれている。現地での作者の体験が読者の体験につながるように、詩情をもって表現され、エッセイとするには惜しい佳品に思える。詩的散文であり、現地のエピソードを述べる作者の感傷がそのまま読者の心に届く。同じ作者の小説「やがて来るもの」が「文学街」309号に読者賞を受賞第一作として掲載されている。文学的な鑑賞力の優れたところを応用して、高踏的な雰囲気の作品になっている。芸術的品質は「黄昏のなかの風景」の方が高いと思われる。読む人によって、読みどころが異なるかも。そこがこの散文の良さでしょう。また、「やがて来るもの」がストーリー性があって面白く読め、その分、理解する読者増えたなら、それは品質性より優先するものとして優れているのではないでしょうか。
【「君の歌える君のふるさと」高雄祥平】
 中年男の恋愛と恋人の女性の文学的な感性を追求し、二つの要素を織り込んだ新しい織物を産むような挑戦的な試み。普通の手法を敢えて取らずに、果敢に新手に挑む棋士を思わせる。
 発行所=〒739-1742広島市安佐北区亀崎2-16-7、「石榴」編集室。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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2013年8月 5日 (月)

西日本文学展望「西日本新聞」07月27日(土)長野秀樹氏

題「宿命としての『老い』」
宮川行志さん「黒い裸婦像」(「詩と真実」769号、熊本市)、西村敏道さん「老いにけり」(「飃」93号、山口県宇部市)
「ほりわり」27号(福岡県柳川市)北原白秋没後70年特集より櫻木信之さん「青春の自刃」、「火山地帯」174号(鹿児島県鹿屋市)より長井那智子「大森病院ノート2 『船溜まり』の美帆」・立石富生さん「メランコリー日和Ⅳ 雨は静かに満ちてくる」・城津与志さん「アクシデント」
「飃」より福本哲夫さん「幻のワクチン」
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2013年8月 4日 (日)

文芸同人誌評「週刊読書人」(13年06月28日)白川正芳氏

「太宰治賞2013」受賞作はKSイワキ「さようなら、オレンジ」
和田ヒロミ『夕なぎ』(自家版)より村上春樹著作の評論4作
財界人文芸誌「ほほづゑ」より渡辺英二「鳥と樹の関係 散歩の植物誌(三十二)」
有田美江「いわて移住日和(二)」(「舟」151)、宇江敏勝「赤い着物の女の子」(「VIKING」747号)
棚橋鏡代「如月の一日」(「北斗」6月号)、松尾升子「あやまち」(「佐賀文学」30号)、祖父江次郎「ちぎり橋」(「作家」80号)、海邦智子「春の夕陽」(「札幌文学」79号)、美月麻希「銀色の雫」(「白鴉」27号)、森ひろお「ヨーロッパぶらり旅」(「文学街」308号)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめより)

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2013年8月 3日 (土)

文芸時評7月(東京新聞7月30日)沼野充義

文芸時評7月(東京新聞7月30日)沼野充義
 藤野可織「8月の8つの短編」多彩な構想力の連作。
 佐藤友哉「ベッドタウン…」重く響く「ワスレルナ」。
≪対象作品≫
 藤野可織「8月の8つの短編」(群像)/松田青子「英子の森」(文藝)/馳平啓樹「三千階段」(文学界)/佐藤友哉「ベッドタウン・マーダーケース」(新潮)。
         ☆
 沼野氏は、前段に書いている。――世界的文学を論ずることで知られるフランコ・モレッティという研究者(スタンフォード大教授)の新刊「ディスタント・リーディング(速読)」(ヴァーソ社、英語)を読んでいたら「文学の殺戮場」という物騒なタイトルの論考に出くわした。モレッティによれば文学の歴史とは文学の殺戮の場にほかならず、出版された本の大部分、おそらく九十九・五%は跡形なく消えうせているという、しかし、私としてはモレッティの提示する冷厳な統計の正しさを内心認めつつも、毎月生み出され続ける豊かさを信じたいとも思う――
         ☆

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2013年8月 2日 (金)

「銃口」  小宮隆弘 ~~読み人・江素瑛

「詩人回廊」詩流プロムナードに移行しました。 「銃口」  小宮隆弘

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