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2013年7月12日 (金)

文芸同人誌「季刊遠近」第50号記念特集号

 本号には「バックナンバー一覧」がある。創刊号は1996年、その目次に久保田正文「古い記憶の底から」がある。編集後記によると、本誌は朝日カルチャーセンター「小説の作法と鑑賞」講座の久保田正文講師からはじまったという。久保田氏が故人となってから、当時、法政大学教授で文芸評論家の勝又浩氏が合評会に迎えられているーーという経過がわかる。今回は過去の掲載作品を推敲や改稿したものが多いらしく、いくつか既読感のある作品があった。
【「文化の力」勝又浩】
 勝又氏は、私の母校である元法政大学の文学部の教授である。私はマルクス経済学専攻であったので、文芸の芸術性よりも社会的な意義を重視してきている。それでも、ここに記された、日本画や能の美についての話は納得できた。日本人の伝統的な文化力に俳句や短歌を生活に組み入れてきた流れに文芸同人誌の存在があるとするのだ。たしかに江戸時代「北越雪譜」(鈴木牧之)の生まれた地域の社寺には、何十万という俳句が奉納されているそうである。私のかつての体験でも、黒姫山から一茶記念館に向かう街道の家並の軒には筆の俳句と提灯が下げてあった。その詩心表現の民衆の意欲と根深さに、感銘を受けた記憶がある。私なりにこうした日本人の精神を柳宗悦に倣って「民芸文学」と名付けている。文芸同人誌も範疇に入るのだが、この用語を使ってまだ評論を書いていない。
 ついでに、「文芸同人誌評」と私の「文芸同人誌作品紹介」との違いを一部記しておこう。文芸批評や同人誌評における「評」には評価であり、価値を論じるという意味がある。経済学でいうと価値とは市場価値である。もうひとつ芸術的価値というものがある。おそらく尾崎紅葉が同人雑誌を作った時代背景には、作品に「市場価値」と「芸術価値」が同時に存在するという考えや仕組みがあったのであろう。
 ところが、私が昭和40年代に所属していた同人雑誌の会の主宰者は、書くことそのことによって人生を有意義に過ごそうという思想の持ち主であった。そのため、同人雑誌に書くと「よく書きましたね」という、メモが必ず入っていた。書くという行為を評価したのである。であるから「仕事や生活に追われて、書くことができない」という悩みを打ち明けると、「それなら頭のなかで書いていなさい。心になかで書いていなさい」と説いたものである。市場価値や芸術的な価値の評価以前のものであった。
 私はこの主宰者の指導に傾倒した。今でもその思想に従っている。ここから、私は社会環境を反映した生産物の紹介「作品紹介」という発想を持ったのである。このことは、同人誌を「民芸文学」として位置付けることと矛盾しないと思う。そして、書くという行為によって書き物を生産するのであるから、その品質の良いものを生産したいという発想が生まれる。そうすると、経済社会には「品質工学」というジャンルがあって学会まである。今回、たまたま難波田節子氏の小説が掲載されていたが、彼女の小説が、多少のバラツキがあるものの、高品質なところで安定しているのは何故か?ということも分析できる。――長くなるので、これまでにします。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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