外狩雅巳氏から意見を聞いて――今後どうするか考えた(3)
同人誌作家としての外狩氏の求めるところは、純粋に自らの作品を読んで評価してほしいというものが強い。たしかに現在の「詩人回廊」にはそのような欲求に応える要素は少ない。そういう面では、お互いに読み合うことに抵抗感のない同人誌に作品を発表し、それをこの通信で「作品紹介」を優先的に行えば良いであろうと判断した。
そのうちに、それらを集めて外狩作品を論評し、集めた「外狩雅巳の世界ガイド」という小冊子をつくり、友人や文芸に関心の薄いひとへの宣伝を考えようと思う。
おそらく多くの同人誌の作家は外狩氏と同じ意見であろう。
それでは、なぜわたしが反響の少ない「詩人回廊」を運営するのか。もう一度ここで考えてみたい。目下、外狩氏は「相模文芸」と「群系」むけて創作にいそしんでいるそうである。その場合はおそらく、想定する読者は、当然に同人誌仲間であろう。
ところが、「詩人回廊」の書き手には、想定する読者がわかっていなiい。見知らぬ誰かである。同人雑誌なら、仲間が必ず読んでくれるはずである。それがない。そこが根本的に異なるのである。もしかしたら、編集人としての伊藤以外は、誰も読んでくれないかも知れないのだ。
けれども、それでも良いのである。参加者は「詩人回廊」という場があるからそれに向けて書く。もし、そのような場がなければ書かなかったであろう人もいる。実際に同人誌に入っても合評会に出られない。出たくない、という会員が存在する。
ひとが自己表現としてものを書くことと、それを他人に読んでもらうという気持とは、内面で2段階に分離しているのである。
ひとつは、書いている間は文章表現に全力を投じる。それに没頭し、書き終わった時は達成感がえられる。充実した時を過ごすのである。これによって生きる力の再生、日々の無力感ニヒリズムの克服をする。つまり自己表現の目的は100%達成する。
あとは誰かに読んで欲しいというささやかな望みである。これは書いた後のゴミのようなもので、プラス20%ほどのものであろう。つまり書いたものに対して意見を欲しがるのは、120%の成果を求めることである。それは慾が深くはないか。世間全体のなかから、誰かの読者がいれば良いのではないのか。要するに、文学オタクが読むか、少なくてもいいから、一般人にも読めるシステムに乗るかの違いである。
私がそのことを学んだのは、友人の川合清二氏と同じころに入会した「天の会」(仮称)での体験である。その同人誌のことは≪ 「文芸の友と生活」(11) ≫に書かれている。『若杉さんは“無名人の雑誌”と銘うち、行く行くは発表の場のない貧しいひとたちのよりどころとなるような、立派な同人誌にしたいと抱負を語っていた。』とあるように、同人誌は作家になるためのものでなく、生活を充実させるためのものである。
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コメント
コメントすることによって、環が広がるでしょう。
例えば根保がコメントすることによって、根保のブログに見出しがつき、根保のブログからこの場や詩人回廊にアクセスするという循環になるもの。
「群系」の掲示板なんかは根保のブログから数十人がアクセスしてくるようになりました。
ルートとはそういうものです。詩人回廊も近( ̄ー ̄)ニヤリく私のブログから入る者が増えてくると思います。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年6月10日 (月) 16時19分