文芸同人誌「雑木林」第15号(枚方市)
【「あきらめない続・三」井上正雄】
前号よりも重篤な症状になっていく記録である。見守る夫の喜怒哀楽の感情の波が表現されている。難しいことを言わず、長年連れあってきた妻という存在への強い愛は、何であるのか。長く生活を共にすることで、形を変えてくる情愛の形について、強く問いかけている。【「頚椎の異常」同】自分は、当初は腰が痛くなったが、親類の葬祭ごとがあって、痛み止めを飲んでん我慢していた。その内に左足で踏み込めないほど痛くなった。一段落して病院でレントゲンを撮った。医師がいうのには、加齢による腰椎変形で、基本的にほとんど直らないそうである。あてもなく、リハビリをして痛みを軽減している。こうした短い書きものでも、おお、やはりそうなのか、と身につまされる。多少の巧い小説よりこうした生活日誌の方が印象に残る。
【「遠い日」水野みち】
病み上がりの身で転居したが、快復したらしい。自由な生活になって靖国神社に行った話。多くの人が行っているであろう神社。時代、季節の思い出が人によって異なる。こういうのも、テレビ番組の街歩きの活字版で面白く読める。
【「一口の水」村上節子】
水分補給に必ず飲むから身近なものである。今は日田天然水を愛用して、飲み方に工夫をしている話。幾度もそれを楽しみして感謝して飲むという。なるほど、よい趣味を見つけたと思う。
【「花嫁」菅沼仁美】
中国の古事から、大河小説の一部のような題材を、語り口を工夫してよい。短いにもかかわらず、味のある雰囲気に仕上げてある。話が楽しめた。
【「ふたたび北川荘平先生のこと」安芸宏子】
「雑木林」の名称は、まるで雑誌の方向性を指し示したかのように、作品群が武蔵野の雑木林のような道に沿っている。前世紀の近代文学の時代には、同人雑誌は作家になるための修業の場であった。しかし、戦後とくに高度成長時代以後は、生活記録で自らの生き方を確認する手段としての機能を重視する方向になってきた。本誌はその典型的なものであろう。
「雑木林文学の会」は、大阪ガスに勤務しながら作家をしていた故・北川荘平氏を講師とする文芸教室の生徒の会であるらしい。編集後記には、「我が会では小説を書く人があまりいない。みな小説を書く気がない。理由を問うと嘘っぽいからだという」とある。確かに本当らしく書いた虚構なら、プロの作家が腕をふるっている。ここに記されている北川氏のその入会条件の様子では、プロの作家のようになれ、というような指導はしていなかったようである。良い文章を書きなさい、くらいのものであろう。
心の糧として、自分と向き合った生活日誌を記すことは、職業作家のように、何万人もの読者を必要としない。せいぜい同人誌仲間を入れて、何十人ほどの読者に理解されればよいのでは。本誌のどれも、読んでつまらない作品はない。『理恵子の事情』も小説風、身辺雑記的で、生活記録の範囲をでていないが、このようにした方が書きやすい面もあるのだろう。リアルではあるが、小説的な大ウソの創りがない。その意味で、本当は、小説の概念から遠いのではないか。
発行所=〒573―0013枚方市星丘3‐10‐8、安芸方。
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