プロレタリア―ト系文学世代は何処に向かうかⅢ
詩人回廊「外狩雅巳の庭」で論じられているプロレタリア文学論考について――いまの時代にプロレタリア文学というジャンルの底流にあるのは、社会体制(あるいは組織)と個人、生活のなかの文学芸術という要素である。その一端を示すのが詩人回廊「外狩雅巳の庭」にある作品や論評である。マルクス主義思想での芸術論は疎外という概念のなかに閉じ込められているため、その文学性と大衆性との関係が時代の狭間に落ち込んでしまった。
とくに同人雑誌文学では、問題提起型と趣味芸術型との二極分化が大勢をしめている。とくに、趣味芸術型のなかに生活身辺を題材にしたものが多いため、そこに便乗したように、ただの身辺雑記がエッセイとして寄稿されている。このためプロレタリア意識による生活小説も、面白いエッセイのように受け取られてしまう。
プロレタリア文学はマルクス主義の最も空白なる分野を埋める思想と芸術の総合として、未踏の分野であったことにその独自性がある。とくに外狩氏の作品や理論を読むと、記憶の底にあった人々のことを思い浮んだ。前に学生アルバイトで働いた町工場で出会った旋盤工のことに触れよう。その旋盤工は年配の共産党員であった。立ち仕事のため痔を悪化させてよく休んだ。
私は経営者から、彼がどの程度悪いのか自転車で彼の家に様子を見に行かされた。木造二階建ての安アパート、長屋の一室に住んでいた。部屋には布団がたたんであり、服は壁釘に引っ掛けて吊してあった。酒の一升瓶が何本かある。話を聞くと、無駄なものは全部処分した、女房も子供も全部ムダだから追い出したという。
「酒を飲むのはムダではないのか」ときくと「ムダではない」と言い切る。その人の資本論解釈は「資本主義は自己矛盾で恐慌により崩壊し、革命が起こり共産主義社会がやってくる。
自分たちルンペンプロレタリアートは、その途中段階の埋め石となる歴史的存在になる」というのだ。資本論にはそこまでは書いてない。これはヘーゲルの社会の歴史的発展段階論の概念なのだ。社会の発展段階を担う無名人の歴史的な役割を担う存在の確信論である。外狩氏の作品には、マルクス主義よりへーゲルのビジョンの世界である。
しかし、社会が発展段階を経てどこまでも発展するという保証はない。そこが問題なのだ。われわれはすでにヘーゲル哲学を卒業してしまった時点にいる。
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