プロレタリア―ト系文学世代は何処に向かうかⅡ
話の続きはする前に、先日「詩人回廊」のサイトのアクセスカウンターが表示されなくなった。どこのプロバイダーもそうだと思うが、ツイイッター、スマホ、フェイスブックに使いやすいように、コントロールデザインをやたらと変更するのである。操作の記号や使用法が前と異なるので、どこをどうすればよいかわからない。訪問者数表示のところに訪問人数とページビュー(PV)があったので、PVに変えたら表示された。ページビューとは、訪問者が異なるページを見ても数字が加算される。訪問者の人数はその半分くらいとなる。「詩人回廊」は、本当に興味がある読者しか読んでいないのは、その数の少なさで証明されると考えている。毎日10人前後なのがこれまでの事例であった。ときどき異常な数値が出ることがあるが、こちらでは何もしていないので原因はわからない。
ところで、外狩氏の体験との関係の話に戻ろう。
私は、マルクス・エンゲルスが構築した理論が、歴史を資本形成の法則として後世から体系的に捉えることが出来ることを知って、もっと知りたいと夜間大学へ通うようになった。すると、会社の上司から残業をしない、勤務態度が悪い。大学の専門が工場現場役立つ工学部でなくて、なんで「経済学」なんだ、と文句をつけられ、退社した。生活費と学費のためアルバイトは、やはり町工場。旋盤、シャーリング、ボール盤、キサゲ作業、銘板目盛版彫刻などやった。けとばしというプレス作業が両手でスイッチを押さないと落ちない電動式になっていた。「吹けばとぶような将棋の駒に~」と周囲の誰かが、やけくそ気味に歌っていた気がする。
そのなかで「資本論」を読んでいるという年配の旋盤工に出会った。わたしはすでに大学で経済学を専攻し、教養学部の段階からマル・エンの「経済学批判」(マルクスの資本論の前段部分)を学んでいたので、共産党員の旋盤工の独特の資本論解釈に驚かされた。
外狩雅巳氏と私は、こういう時代の同じ空気を吸ってきたわけである。彼は猛然と執筆原稿を送ってきている。編集人の自分は、掲載順をコントロールしていかねば、サイトがハイジャックさたようになってしまう。作品や主張を読むと、彼は本質的に詩人体質である。本人がどう自覚しているかは知らないが、これから論評の対象にしてゆくつもりだ。議論になればそれも面白いかも知れない。
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文芸同志会運営Newes「暮らしのノートPJ・ITO文芸」
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コメント
伊藤さん、外狩さん共に共通項あるのですね。
伊藤さんは経済学学んだのですか。
伊藤さんの文学論はかなり専門的で厚みがあるように受け取ってます。外狩さんはまだ用語の使い方が身についていない感じですが、したたかな実践活動を経てきていらっしゃるのでしょう。
お二方の論述注目しております。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年5月 1日 (水) 20時34分