大江 健三郎氏 × 本谷有希子氏の公開対談を聴く
15日に行われた大江健三郎賞受賞者との「第7回大江健三郎賞公開対談」 大江 健三郎氏 × 本谷有希子氏を聴,きに行った。この賞は大江氏が選考を行い、受賞作は英語などで翻訳出版される。対談でも語っていたが、この賞のすごいのは、2012年に日本で刊行された「文学の言葉」を用いた作品約130点の中から決定したということだ。
我々一般人ではとても出来ない作業を、ノーベル賞作家の大江健三郎氏が行い、その選りすぐりを示してくれるということだ。その本を読まないでいる理由はない。とくに私は、現代文学といっても掴みどころが感じられず、誰のどのような作品を読んだら、自分の人生を豊かにするのか、特定の作家やジャンルを傾向的に読むことができないでいる。
今回の対談では、大江氏が、小説家が小説家であることの意味や、聴衆からの質問で、なぜ、詩が賞の対象にならないのか、という問いに答えるなど、現代の日本の詩や小説の状況を反映して意義深いものがあった。
わたしは対談の終ったあとの聴衆からの質問の時間をいただいたので、本谷さんにこの短編集の語りの1人称と3人称の使い分けの基準について質問させてもらった。
エンタイーテーメントのストーリーの判りやすさを重視する場合に多く3人称が使われる。ところが、純文学となると、たとえそれが第3人称であっても、結局のっぺりとした3人称形式1人称的な表現であることが多いからだ。ところが、今回の本谷さんの「嵐のピクニック」のなかの「アウトサイド」では、1人称なのに実質的に3人称的表現と思われる文章なのだ。こうした、妙なねじれたような表現では、私はパトリシア・ハイスミスしか想いうかばないのであった。前から、ハイスミスに訊いてみたかったのだが、それはできない。本谷さんにきいても同じなのかなと、思って質問したのであった。この対談は、報道的な視点で「暮らしのノートPJ・ITO文芸」で記録していきたいと思う。これからはフリージャーナリスト(仕事がフリーター)の立場で、文芸的なものに力点を置くというか、いまのところそうするしかないのである。
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コメント
最近は小説は歴史物、それに詩・短歌・俳句読んでますね。
短いものが読みやすく、また短詩は私小説的で信用できます。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年5月17日 (金) 19時28分