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2013年5月11日 (土)

文芸誌「KORN」コルン2・2013.4(福岡市)

【「蛇苺の虹―愛しい人たちー」納富泰子】
 昭和の時代に、血縁、地縁の一族の栄枯衰勢の末に滅んだ民衆の物語である。親族がお互いに助け合い、強い絆があるが、そのかわり私生活までずかずかと踏み込み合う。孤独死は滅多にないが、お互いの生活に踏み込み合って、個人は親族のしきたりのなかに埋もれてしまわないと許されない。そういうべたべたとした関係がまた生きがいになる昭和の庶民たちだった。そういう個性をゆるさない、もたれあいの社会をみっちりと描く。本書の第1号の納富さんの作品も読んでいたが、短すぎて作者の手腕が小手先芸に埋もれてしまっていた。道端の雑草ような、どこにでも見られる身辺雑記物に毛の生えたものとの相違が明確でなかった。それを指摘すると、折角の門出に、悪口に思われて気分が悪かろうと、紹介の対象にしなかった。
 それでもしかし、この作品は長いため、日本人社会のつながりの原点をじっくり表現して、今は失われた世界を滅びの美学の視点描く。エピソードが生きて、表現のエネルギーとしてまとまっている。1号と2号を合わせ読むとさらに良いのではないかと思う。問題提起と作品的な回答は同じ画布にあり、絵巻物のようにつながっている。
 そういうわたし自身、漁民の家であった。海の農民の長男である。総領の甚六という。本家、分家、新家と先祖伝来のしきたりの中で、くだらない同族意識の愛憎に付き合わされてきた。その絆の親たちも親戚もほとんどが、亡くなってしまった。たとえ良いことでも、不愉快で思い出したくもない。たしかにここに出てくるようなおばさんたちがいましたよ。しかし、本作品を読んで、その嫌悪感も愛情のうちなのか、と思った。小説としてはつまらない部類だが、それに惑わされすに読んでみるものである。こういう気持ちの悪い日本人の世界を、美学的にも思えるように描くことのできる納富さんは魔女でしょう。
発行所=〒811-1353福岡市南区柏原2―23-5、納富方。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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コメント

このたびは、たいへんご丁寧なご批評を賜りましてありがとうございます。
今までは「毒にも薬にもならない小説」を書いてまいりました。
しかし、今回は、おっしゃる所の「いやらしい」小説に挑戦しました。ある人間にとことん苦しまされても、どのように耐えることができるか、しかも、長い歳月の間に、その人をだんだんに理解し、愛しいと思えるまでの、長い心の闘いと、誰にでも愛しい面があることを、書きたい、と思ったのです。

今回は今まででいちばん多くの、さまざまな感想が届きました。
そして、思ったことですが、「小説とは、書き手だけで出来上がるものではない。読み手の精神性の在り方によって、変容する。いくつもの小説が、最後に出来上がるのだ」と、目から鱗のように理解ができました。
非常に面白い発見でした。いや、もとから分かっておられた方は、同人誌には多いでしょうね。

読み手によって、毒にも薬にも変容するのが、小説です。これには、興味をひかれました。
毒にも薬にもならない小説は、読み手によっての変容が少ない。それでは物足りない。

これからも、人間の心の襞をさぐってひたすら書いていきたい、と、思いました。
長い小説を読んでくださり、ご親切なご批評を頂きましたこと、心から感謝しております。

投稿: 納富泰子 | 2013年5月16日 (木) 06時54分

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