書き手と読み手~同人誌における作品評の現実 外狩雅巳
「こんな会社もう辞める」と同僚が言います。酒席で会社批判の上に退職をブチ上げます。が、一向に退職しません。
サラリーマンの愚痴は仕事に集中しますね。不言実行,いやなら辞めるーーがモットーだった私は二十社以上も転職しました。
堪え性の無い人間として評価され年金額も少ない現在です。変な正義感・わたしはこれで会社を辞めました。
私の論考にコメントが来ました。(作品も下手な自分が)と前置きがありました。同人会の合評会でも(自分は書けないが)と前置きしてから発言する人が多くいます。感想発言後に「そんならお前が書いて見ろ」といわれた事もあり私も他人の作品は褒めます。
作品と批評では作品が上位にあるような雰囲気の中での合評会は作者として居心地が良いので応募もせず会誌にのみ書き続けました。
会誌には作品が多数掲載されていますが、文芸評論や作品評はほとんどありません。創作ばかり人気があります。人気作家なら何人も知っています。人気評論家はと聞かれても名前が浮かびません。
しかし、内心では他人の作品への不満が多数あります。此処が悪いあそこが変だ、こんなのナシだよな。書けない私ですが、と前置きすれば安心して発言出来そうです。不言実行がちらつきます、書けなければ言うなと、もう一人の自分が抑えつけます。
作品と批評は対等平等だと学んではいます。聞かれればそう答えます。でも実践出来ません。書店や図書館でも小説書のコーナーは広く文芸批評書のコーナー狭いですね。人気もなく売れ行きも無いのでしょう。読書家は創作が好きなのですね。皆知っています。
読書は自分流に読み、楽しむからこそ生き甲斐にしているのだと思います。
文学賞は選者の評があります。合格しなければ入選しません。作品を書かない評論家が選者でも世間は納得するのでしょうか。
自作は下手でも他者を納得させる批評を会得し合評会で思い切り発言したいと考えています。
≪参照:「詩人回廊」外狩雅巳の庭≫
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コメント
そうですか、現代は批評文読まれませんかね。私は若い頃から文芸誌は評論を真っ先に読んでましたね。今も同人雑誌読むときは、評論・エッセイを真っ先に読みますね。
小説は昔も今も面白くないです。特に昭和30年代までの文芸評論は質量ともに充実してましたね。現在の同人雑誌も文芸批評の載ってない雑誌はレベルが低く創作も駄目ですね。
この同志会が気に入ってるのは、伊藤さんの筆筋を中心に批評文があるからです。仲間内の褒めあい感想の欄は面白くないですね。外狩さんも批評の目と文章を鋭く磨いて読ませてくれること願ってます。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年4月14日 (日) 16時31分