同人誌の組織団体性と作品の向上は対立条件か(3)
同人誌の話として、よそのことはよく知りませんので、(そのために同人誌作品紹介を作って片手間に状況を把握していたわけです)自分の体験からの事例にします。
Kの会の同人誌は、書き手の表現をお互いに理解し、共感し合えれば良い。気持ちが伝わるように書いてあれば、会員の多くの人に理解されるので、優れているという評価になります。つまり癒しとしての表現の場で簡潔していたわけです。そこで伝達力のある文章がよい文章ということになります。人生の過程での癒しですね。
対象的なのが「グループ桂」です。ここは講談社の小説教室でしたので、純文学で文壇に出ることを最初からめざしています。これはかつて雑誌「文学界」で実施していたような、「同人誌評」にも共通する作家志望者のためのグループです。「グループ桂」は伊藤桂一氏に指導を受けるために提出された作品を印刷・製本したもので、したがって基本は教材テキストであり、未発表作品となるわけです。自分が過去に「グループ桂」に掲載し、同人仲間から悪評をされた作品を市販の雑誌社に売り込んだのも、こうした未発表作品としての持ちこみでした。それが採用されたり、たまたま雑誌の常連の作家が作品を出さず、穴があいたので、書いてみないかと言われて、1週間で40枚ほどを書いたのもあります。たいして努力はしませんでした。ただし、以降の作品については、いろいろ商業誌志向の努力するように言われたものです。
偶然、わたしは方向性が極端にちがう、同人誌に所属していることになるのでしょう。ただ多くの同人雑誌は、この二つの性格を曖昧な形でかかえているようです。
できれば、組織を拡大維持しながら、作品の質を高めようというのです。同人誌「砂」は、癒しが主ですから、くだらない作品が多いです。
かつては、それでも「わかる、わかる。こういうくだらないのを書きたくなるのはわかりますよ」といえば、「そうでしょう。そうなんですよ」となり、万々歳なのです。「こんなくだらないことを長々と書ける人はいないよ。まさに紙のむだだよ。普通じゃできない。なかなかできない。偉いねえ」「そうなんですよ。大変だったんです。わかるでしょう」と盛りあがったものです。
それなりに意義があったのですが、最近は書いて癒しにする層は若いひとたちで、年寄りは旅行や別のサークル活動でそれを満たすらしく同人は減っています。
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コメント
同人雑誌は色々あっていいですね。要は自分にあった場所を選ぶということでしょう。
一冊のまとまった本にしたいとして同人誌に入る人もいますし、仲間を求めて入ってくる方もいます。自分の作品を鍛えたいと入ってくる人もいますし。
レベルの問題もありますね。書いたものは皆載せたい人もいるし、何度も書き直したいので、意見を言ってくれという方もいます。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年3月26日 (火) 08時00分