同人誌の組織団体性と作品の向上は対立条件か(4)
文芸同人誌といえども、時代の産物であるから取り巻く状況の変化がある。戦後の敗戦から所得倍増計画が実施された1960年以降同人会「Kの会」は、癒しの同人誌であったにも関わらず、妙に清澄な文を書く女性もいて、純文学新人賞をとった人、婦人公論賞をとったりする人が出た。くだらない作品ばかりの中にでも、表現力がある人が出ると、そうなる。そこで、癒し派と作家志望派が内部にできた。その時に、後に「響」という会社を経営する川合氏が作家志望派で参加していた。彼が私に伊藤桂一教室の生徒になることを勧めてくれた。縁ができたのである。彼が亡くなったので、その間の事情を回顧録「文芸の友と生活」として、同人誌「グループ桂」に書いている。その筆名が北一郎なのは、グループ桂の指導者である伊藤桂一氏と当方の本名が一字違いなので、まぎらわしいためである。
当時、私は癒し派であった。そのながに、生活の苦しいにKの会で元気をもらっていた事業家がいた。ずうっと後になって電車で声をかけられた。「きみKの会のあのときの…だろう」といわれてみれば、たしかに、私の短編を褒めて注目してくれた数少ないひとの一人だった。「いや、あれから偶然に映画撮影用の道具を頼まれて作ったら、ハリウッドの映画製作者が、これを欲しいというので、アメリカで大ヒットさ。子供たちは全員アメリカ留学させている。恩返したいけど、主宰者の先生は?」「いや、もう引退して手を引いているんです」というと、残念がって私に御馳走と酒を奢ってくれた。これこそ、Kの会の先生が望んでいたことなのだろうと思ったものだ。物をかくことで、気分転換になり、生活への元気づけになれば、それでいいのである。
それがなまじ作家の真似をしようとか、作家になろとか大それた目標を持つから、一般人の関心と異なるので、人々の共感を得にくくなる。作家登竜門を狙う同人誌は、そういう人が自分一人では同人誌を出すと資金が大変なので、同じ仲間を集めて出しやすくする。それだけのことである。最近、多摩川の河原を意識的に散歩しているが、そこでトランペットの練習をしている人がいる。孤独な修練をしているのだ。通りがかりの私はそれ足を止めて聴くことはない。でも、本当に心を打たれるようであれば、足を止めて聴こうとするであろう。足を止めないのはそれなりのことであるからだ。
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