文芸同人誌の同人としての詩作
同人誌の編集はするのは面倒だが、参加するだけというのは楽だ。わたしは「グループ桂」と「砂」の同人になっている。編集にたずさわらないので、気楽に投稿している。
このふたつの同人誌は直接的に関係がないが、同人仲間に友人が両誌の印刷をしていた。「砂」という同人誌は、もともと人生の癒しとしての精神をもとにしてきた。書くまでの過程が重要で、書いたから発表するというようなものであった。「文学界」の同人誌評があった時期は、そこにも送っていたが、それがなくなると。現在は、会員だけが読者のようだ。
私は創設時からの縁があって、一般同人の立場で参加を続けている。そこで最近は自己の癒しを主体にした「詩」を載せている。詩というものは、だれも意見を言わないし、自分だけのイメージをもとにして書いているので、他人が理解できるとは思えない。そこで、同人雑誌という形に組み込まれた自作品を、自分で読んで楽しむ。
あとで自分で読んで、面白いと思わなかったら、どこかで気が変わったことになる。そこで、気が変わっても変わらない作品ができないか、考える。それと、もう年なのだから世俗のことに怒りや嘆きをぶっつけるメッセージ性ははぶく。枯れてディレッタント風の詠嘆がなければならない。しかし、なにいってるかわからない可能性があるので、どうも詩らしい、と思わせるためには、リズムが必要だ。日本の伝統の五七五七七の語調を取り入れる必要がある。とはいっても、我々は現代的なリズムがあるので、それを意識的に破る調子をつける。歌謡曲やお笑いの一発ギャグのリズムも現代的だ。歌謡曲でディレッタンティズムがあるのは、何といってもなかにしれいである。彼の詞は自分の理想郷だ。読んでいて涙ぐみたくなるほど切ない。そこまではむりなので、自分の文章力の範囲で追従したい。それと歴史観を盛り込む。
「砂」121号ができた。自作を読む。4頁にわたる中編詩だ。まったく独善的に言葉を並べたつもりだが、いざ出来上がりを読み返すと、それなりに面白いが、やはり自らの不満が多い。もっと自分の内面性が出てもいいような気がする。次は、もっとわかりにくくてもいいようにしようと思う。
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