舞踏する言葉は小説になるか?都市伝説の中の「死霊」たち(2)
山川豊太郎の「都市の屑屋」(詩人回廊)は、4回あたりになると自ら都会を襲った洪水で死んでしまったという。もしそうだとすれば、ここの語り手は都市の死霊というころになる。この語り口は文章として舞踏的に読める。近代文学の初期の菊池寛は、当時「詩は不可能なことやわからないことを考えて発想するロマンティズムであるから、科学が発達し、わからなかったことが分かるようになると消滅する」という説を唱えた。これに萩原朔太郎が猛反発した。菊池寛の説はある意味で間違った。それは散文の詩的発想という形で小説のなかに組み込まれてきたからである。言葉の舞踏が小説にも入ってきている傾向がみられるのである。
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コメント
文体は踊りであると仮構してみると、踊りにも色々あるわけで、それが作風というものであろうと思います。
踊り方に魅せられることこそ、文藝の価値を見極める基本姿勢だと考える立場に私は立ってます。
散文は歩行で詩は舞踏だと言ったフランスの詩人の言い方を一歩進めて、文学は舞踏にこそ着目すべしという立場で一貫してます。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年3月19日 (火) 05時08分
今年もよろしく。
伊藤さんの鋭い筆筋楽しみにしてます。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年1月13日 (日) 06時45分