西日本文学展望 「西日本新聞」2013年01月29日(火)朝刊/長野秀樹氏
題「雑誌と単行本」
浜崎勢津子さん『私の四国遍路』(株式会社マルニ発行)、後銀作さん『郷愁の原風景』(九州文学社発行)
「独り居」2号(福岡市)片科環さん、「Garance」20号(同)より鈴木比嵯子さん・周防凛太郎さん「蕎麦打ち侍」・新名規明さん「石橋忍月について」、「詩と真実」763号(熊本市)より正田吉男さん「建立」
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)
題「雑誌と単行本」
浜崎勢津子さん『私の四国遍路』(株式会社マルニ発行)、後銀作さん『郷愁の原風景』(九州文学社発行)
「独り居」2号(福岡市)片科環さん、「Garance」20号(同)より鈴木比嵯子さん・周防凛太郎さん「蕎麦打ち侍」・新名規明さん「石橋忍月について」、「詩と真実」763号(熊本市)より正田吉男さん「建立」
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)
文芸同人誌の交流活動が活発になっているなかで外狩雅巳氏が、その現状を報告してくれました。そこで、同人誌交流実践の経験からみた情報として掲載します。(文芸同志会は文芸情報を社会情勢の反映としてとらえていますが、そのなかに文芸同人誌作品にも、そこに表れた社会動向として情報化しています)。
=外狩雅巳氏から見た「文芸同人誌連携の現状」概要=
電波媒体の同人誌文学紹介は長らくネット時代を先取りした「文芸同志会通信」の独り舞台でした。それでも十年ほど前から各同人誌はホームページでの発信をはじめだして来て、現在は多くの同人会がネットを利用しています。
高齢化社会で自分史等の発信要求から同人誌界も少しずつ活発化し注目も浴び出している現象です。全国に千近くと言われています。
商業出版・職業作家より同人誌文学に期待する雑誌「文芸思潮」は優秀作品顕彰を行いながら同人誌支援で発足し発展して来ました。
同誌の五十嵐編集長の発起で「関東同人誌交流会」が四年前から合評と選出を軸に大田区の会館で交流集会を続けています。そのネット版の交流会掲示板が常連の「群系」主宰・永野悟氏によって作成され作品評とコメントで賑わっています。
また、老舗の全国規模の同人誌「文学街」も会員は五百人を超え、全国交流会を四国の三好市で「富士正晴賞集会」を続けています。
「全国同人誌振興会」も発足しました。初代会長は森啓夫氏で現在は空席です。五十嵐氏が代行しています。
「中部ペンクラブ」等や九州にも北海道にも地域連携体は多数ありますが全国規模での連携が二人の手で試みられています。
目的や手法などで必ずしも一致せず試行錯誤の現状ですが、呼びかけに応えて注目し結集する同人誌も増えています。
同人誌は会費制で詩誌発行も個人負担です。内部運営に精力が割かれ交流から連携までは手が回らぬ会も多くある現状です。
信頼性と普遍性のある老舗純文学商業誌「文学界」同人誌評が廃止されても「関東交流会」での作品評や「文学街」の作品評が支えている現状です。
商業文芸誌の実売は数千部です。同人誌の会員は数万人でしょう。ここで作品が精読され支持され、本物の文学が誕生すると信じる人たちが献身的に行動しています。資力もなく、高齢化する同人誌ですが連携して盛り上がりを模索中です。≪参照:作家。外狩雅巳のひろば≫
●「じゅん文学」73号(愛知県)より「空地のまんなか」(猿渡由美子)・「覇王樹~サボテン~」(北原深雪)●「文芸中部」91号(愛知県)より「それは石臼からはじまった」(朝岡明美)・「地上十センチの水」(北川朱美)●「峠」62号(愛知県)より「孝子」(そのなごみ)・「水鳥(みどり)駅のファンタジー」(原あやめ)●「季刊作家」78号(愛知県)より「時計の針が止まるとき」(佐藤たまき)●「遊民」6号(愛知県)より「杉浦民平さんの人と文学」(別所興一)・「怪人・当九郎伝説」Ⅳ(稲垣喜代志)●「R&W」12号(愛知県)より「壁の音」(霧関忍)●「文芸シャトル」75号(愛知県)より「本能寺の変・殺人事件<上>」(堀本広)●「小説π」11号(埼玉県)より「ローレライ」(長嶋絹絵)●「海」86号(三重県)より「とうのみね」(紺谷猛)・「養老」(遠藤昭己)●「流域」70号(京都府)より「一八七〇年代のマネとゾラ-書簡を中心とする交友について」(吉田典子)●「MON」創刊号(大阪府)より「小川」(浅井梨恵子)●「ぱさーじゅ」27号(大阪府)より「春を待ちながら-三」(宇野勝之)・「今は夢中(二)旅する女」(豊田マユミ)・「滴に酔う時」(一)(冬樹真沙)●「播火」84号(兵庫県)より「闇の湖、光のハーブ-前編」(山田正春)●「たまゆら」88号(滋賀県)より「長安の振子-第三章(三)」(梅本修一郎)●「安芸文学」81号(広島県)「斑猫(はんみょう)」(藤井翠)●「群青」81号(東京都)より「十のアリア(九)『私の名はミミ』-大西麗 四十五歳」(渡邊裕子)●「南風」32号(福岡県)より「弓子の挑戦」(渡邊弘子)・「洗面台」(和田信子)・「台風」(宮脇永子)●「鉄道林」52号(北海道)●「カプリチオ」38号(東京都)より「いくたびの、昭和幻燈館」(塚田吉昭)●「カオス」19号(東京都)より「調子の海と人たちと」(城邦子)●「私人」76号(東京都)より「日本赤軍爆破事件余波」(柴しげる)●「北」58号(東京都)より「立神様(たつかんさあ)」(寺本五郎)●「文芸事始」30号(東京都)より「エール」(山田修治)●「孤帆」18号(神奈川県)より「パーティー」(北村順子)●「狐火」17号(埼玉県)より「オルゴール」(志野木保子)
●推薦作
「それは石臼からはじまった」(朝岡明美/「文芸中部」91号)、「とうのみね」(紺谷猛/「海」86号)、「台風」(宮脇永子/「南風」32号)、「ローレライ」(長嶋絹絵/「小説π」11号)、「空地のまんなか」(猿渡由美子/「じゅん文学」73号)
●準推薦作
「本能寺の変・殺人事件(上)」(堀本広/「文芸シャトル」75号)、「養老」(遠藤昭己/「海」86号)、「洗面台」(和田信子/「南風」32号)、「いくたびの、昭和幻燈館」(塚田吉昭/「カプリチオ」38号)、「パーティー」(北村順子/「孤帆」18号)、「覇王~サボテン~」(北原深雪/「じゅん文学」73号)、「オルゴール」(志野木保子/「狐火」17号)、「十のアリア(九)『私の名はミミ』-大西麗 四十五歳」(渡邊裕子/「群青」81号)
雑誌「文芸思潮」第9回銀華文学賞
●当選-該当なし
●河林満賞-「白鳥ダンスクラブ」冴場渉(千葉県旭市)
●歴史小説賞優秀賞-「孤月」飛葉哲朗(広島県広島市)・「榎本式場と手袋」吉田満春(千葉県山武市)
●優秀賞-「父の理想郷」来の宮あんず(東京都江東区)・「夏の揺曳」室町眞(東京都杉並区)・「赤い眼」神通明美(富山県富山市)
●奨励賞-「痣-かぎりなく深く透明な赤・俊子-」土岐耕(大阪府豊中市)・「封印」井上理博(神奈川県横浜市)・「或るがままに」星野透(埼玉県所沢市)・「悪意」成瀬健太郎(神奈川県藤沢市)・「蝶舞う村へ」遠藤秀紀(神奈川県藤沢市)・「藤野家」馬込太郎(静岡県浜松市)・「太鼓供養」河野つとむ(神奈川県横浜市)・「配達アルファ」北澤佑紀(神奈川県高松市)・「汚れたうさぎ」山上弓人(岡山県岡山市)
●歴史小説奨励賞-「越南の仲麻呂」佐々木忠弘(千葉県印西市)・「サムライ養鶏」藤澤茂弘(愛知県名古屋市)・「惣一郎戊辰戦争従軍記」大森耀平(栃木県足利市)・「国境」白井康(愛知県名古屋市)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)
文芸同人誌即売会の「文学フリマ」の超文学フリマinニコニコ超会議2 開催概要が決まった。
開催日:2013年4月28日(日)
場所 :幕張メッセ
アクセス JR京葉線「海浜幕張駅」
出店:参加者 400ブース募集
出店参加費 1ブース5,000円(追加のサークルチケット1枚毎に+1,500円。追加イス希望の場合+500円)
「ニコニコ超会議2」は4月27日~28日の二日間開催されますが、「超文学フリマ」は4月28日(日)のみの開催。•一般来場者は「ニコニコ超会議2」の入場券(前売1,500円・当日2,000円・通し券2,500円)が必要。
仮に「超文学フリマ」だけに来場したい場合でも入場券がいる。ただし、「超文学フリマ」への入場料が別途発生することはなく、サークルカタログもこれまで通り無料配布となる。
「超文学フリマ」は「ニコニコ超会議2」の併催イベントという性質上、文学フリマに来ることを目的としているとは限らず、同人誌即売会について知識のない参加者が多く来場する。また、通常の文学フリマよりも参加者の年齢層が下がることも予想される。およそ9万人以上の来場が見込まれる。サークル参加者は、一般来場者がいわゆる“同人誌即売会のしきたり”を知らないひとたちも多いと予想される。
•「ニコニコ超会議2」での併催イベントとなるため、展示場内ではライブイベントやパフォーマンスも行われる。文学フリマ事務局では単独開催ではないので、騒音や混雑など周辺の環境の影響があることが予測される、としている。
文芸同人誌即売会の「文学フリマ」の「第十六回文学フリマin大阪」(2013年4月14日、日曜日開催)の概要を発表した。
場所: 堺市産業振興センター イベントホール
アクセス: 地下鉄御堂筋線「なかもず駅」、南海高野線「中百舌鳥駅」徒歩3分
出店参加者: 200ブース募集
出店参加費 1ブース3,000円(追加イス希望の場合+500円)※1サークルにつき最大2ブースまで取得可能。その場合、参加費は2ブース分(+追加イス分)必要。
【「芝居の値段」中村治幸】
この作者は不思議な持ち味を変らずに持ち続けている。私は「物語」カテゴリーで、この人の麻葉加那史の筆名での作品を出してある(二日酔いの朝は憂鬱で哀しいという意味であろう)。
日本の近代文学の伝統的な私小説の作風をかたくなに守っている。40年以上前から変わらない。そのころからわたしは、古臭い文学手法しか知らない文学青年だと思っていた。文学ではあるが、いかにも時代遅れだと思っていた。しかし、世間の変化に平気で取り残されて行ってるのにこうまで、スタイルを変えないとかえって新鮮である。立派な文学老年である。
今回の作品は、随筆になっているが、日本の伝統的な形式として存在する私小説であろう。昇は65歳でフレンチレストランの洗い場で働いている。久しぶりに池袋の映画館「新文芸座」に行く。映画は三谷幸喜監督脚本「素敵な金縛り」とさだまさし原作、瀬々敬久監督脚本の「アントキノイノチ」であった。昇にとって映画は、昔から好きであった。友の会にも入っている。何回か入るとポイントがたまり、タダで見られる時があるのだ。いまは映画観賞が労働の疲労を回復する手立てなっていることがわかる。そして、その映画館の客が減っていることに気がかりを持つ。トイレの正面に映画館の友の会の勧誘張り紙がしてある。昇は映画館の入場料が高くなるのを心配している。その視線が、昇のつつましいなかで娯楽を見出して満足してきた庶民的境遇とそれを自然体で受け止める姿勢を物語っている。
ここには昇が読書会で知り合った鈴木さんという男の話が出ている。彼は歯科医の息子だったが、父親と同じ職業を選ばず、若い頃アメリカに留学して、帰国してからもいろいろな職業につき、65歳で退職し現在は年金で母親と暮らしている。彼は舞台演芸が映画より料金が高いのはおかしいと文句をいう。鈴木さんという人は怒りっぽくて、いつもなにかに怒っていてそうせずに居られないものが心の中にあるようだという。
おそらく、昇と親しくしているのは、やはりつつましい生活を送っているのであろう。それは劇場の料金が高いという考えからも推察できる。そして、昇とは異なり、つつましやかな庶民生活に安住できないでいるらしい。誰かに下積みの生活を強いられているように感じて、裕福な生活をする人が存在する社会に対しての怒りがあるのかも知れない。昇が喜劇の話をするのだから、怒らないだろうと思ったら、それでも怒りだしたという、ところに何とも言えぬユーモアがある。
また、昇という語り手が、金銭的な価値観から独立した芸能を愛し、つつましく生活を楽しんでいるという設定が、文芸作品としての核になっている。喜劇すらもお笑いという味気ないものに変ってしまい、真の芸能の理解者が居なくなるという、さびしい現実の感傷的要素が、文学的な味わいとなっている。
もし、これを映画館の入場料や現在のテレビ中心のお笑いへの批判だけに終わっていたら、それは新聞の投書蘭の意見、オピニオンに過ぎず、作文であって文芸ではない。老年、映画館のトイレ、貧しさ生活に安住する精神、これらの細部の意識的な組み合せがあって、スタイルが古くはあるが文学の領域に存在しうるものになっていると思わせる。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)
歴史長編「等伯」で直木賞受賞が決まった安部龍太郎氏(57)が、 松原忠義大田区長に、直木賞を受賞した著書を贈呈したことが東京新聞1月24日付に報道されている。
安部龍太郎氏は、1977年~85年大田区区職員として下丸子図書館の勤務をした。当時から創作活動に取り組み、今も区内に住んでいる。その縁である。
私は10数年前、「血の日本史」で作家の地位を確立したばかりの頃の安部龍太郎氏と会っている。たまたま多摩川の川筋の変化につて調べていて、下丸子図書館に行った時に、それなら作家の安部龍太郎氏がくわしく、その日は大田区の安部氏の読者ファンクラブの会合で来ているというので、そこに出席させてもらった。
その時に言っていたのが「インド旅行をしたことで、物の見方が変わり作家開眼のきっかけとなった」ということだ。わたしは「もうひつ飛躍のできない作家はインドにいくといいらしいな」と思ったものだ。
その時は、自宅のマンションは狭くて資料が置ききれず、静岡の辺鄙なところの1軒屋を借りて、そこに資料を置いて執筆しているという話をしていた。
安部氏の作家修業は、同人雑誌「文芸おおた」での活動と公募であった。区を退職する前の5年間、異動を願い出て下丸子図書館に勤務し小説を書いていたという。
現代小説を書いては新人賞に応募していたが芽が出なかった。1983年に図書館近くの新田神社の由来を探り、区職員の同人誌「文芸おおた」第14号に発表した「矢口の渡」が転機に。新田義貞の次男で、南北朝時代の武将、新田義興(よしおき)を題材にした。
それを新潮社の新人賞に応募したところ、受賞作にはならなかった。
しかし、わたしの記憶では、編集部では才能を感じて、それを雑誌に掲載したのではなかったと思う。その時以来、新潮社の担当者は安部氏の才能を評価していて、なにかと機会があれば週刊誌の記事用として執筆を依頼していたのではないか。
そして、週刊新潮に「血の日本史」という読み切り短編を書く機会があって、それが大好評で継続し、ついに長編連載となって、売れる歴史小説作家なったと記憶している。
ちなみに全作家協会の豊田一郎会長も、新人賞の選に漏れたが、作品が雑誌に掲載された経歴をもつ。すると作家の実績があり、新人賞に応募しても外されたようだ。
本屋大賞実行委員会は21日、「2013年本屋大賞」ノミネート11作品を発表。全国463書店・598人の投票の結果、上位10作品のうち10位が同得点で2作品となり11作品がノミネート作に決まった。2次投票の受付は2月28日まで。4月9日に大賞が発表される。
『海賊とよばれた男』(百田尚樹、講談社)
『きみはいい子』(中脇初枝、ポプラ社)
『屍者の帝国』(伊藤計劃・円城塔、河出書房新社)
『晴天の迷いクジラ』(窪美澄、新潮社)
『世界から猫が消えたなら』(川村元気、マガジンハウス)
『ソロモンの偽証』(宮部みゆき、新潮社)
『百年法』(山田宗樹、角川書店)
『ふくわらい』(西加奈子、朝日新聞出版)
『光圀伝』(冲方丁、角川書店)
『楽園のカンヴァス』(原田マハ、新潮社)
『64』(横山秀夫、文藝春秋)
「季刊 ココア共和国」11より浪玲遙明(ナミタマハルアキ)「逃げない」・秋亜綺羅「編集前記」、「駱駝の瘤 通信4」より秋沢陽吉「コップとマスクと樹皮と」、「吉村昭研究」20号より和田宏「司馬遼太郎と吉村昭の歴史小説についての雑感1」
竹内清巳「女性像の象徴一見」(「群系」30号)、諸井学「マルクス昇天」(「播火」85号)、大城さよみ「「ヘレンの水」作品抄」(「焰」94号)、岡本信也「考現学採集の講座で デザイン生活手帖」(「象」74号)、静岡征雄「私の出会った作家たち」(「民主文学」1月)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)
《今号で取り上げられた作品》
猿渡由美子「空地のまんなか」(「じゅん文学」73号、名古屋市緑区)/塚越淑行「海に消える」(「まくた」277号、横浜市戸塚区)/山之内朗子「夫の遺書」(同上)/柳澤藍「苗代の頃」(同上)/新井春香「きらい嫌い」(「法政文芸」8号、東京都千代田区)/長野桃子「僕の足元にはうさぎがいる」(同上)/鴻農映二「憲法第25条」(「雲」175号、東京都千代田区)/山口馨「水の言葉-かたわらで-」(「渤海」64号、富山県富山市)/熊谷文雄「にせ藩札づくり」(「異土」5号、奈良県生駒市)/野坂喜美「墓穴」(「米子文学」62号、鳥取県米子市)/家田満「謝絶」(「河108」28号、札幌市南区)/行方のな「さつき姫のノート」(同上)/越前結花「夕暮れの森を抜けて」(同上)/磯目健二「白と黒」(「槙」35号、千葉市若葉区)/脇三寿枝「臍の緒は桐の箱に」(「安藝文學」81号、広島市東区)/長瀬葉子「あずき色の電車に乗って」(「とぽす」52号、大阪府茨木市)/吉井惠璃子「二の糸 三番」(「季刊農民文学」298号、群馬県みどり市)/丸山修身「五十年」(「文芸復興」125号、東京都新宿区)/関野みち子「花あたり」(「ぱさーじゅ」27号、大阪市北区)/神倉鏡「メダカ」(「カプリチオ」38号、東京都世田谷区)/中村徳昭「晩春鉛色」(「30」3号、東京都杉並区)/石田出「盆踊り」(同上)/倉永洋「鏡の向こうの顔」(「雪渓文學」64号、大阪市住吉区)/大庭三郎「夕焼け空」(同上)/郷正文「帰去来幻想」(「AMAZON」455号、兵庫県尼崎市)/吉保知佐「木洩れ日の記憶」(同上)/稲葉けい子「三界」(「木木」25号、佐賀県唐津市)
●ベスト3
勝又氏:1.猿渡由美子「空地のまんなか」(「じゅん文学」)、2.長野桃子「僕の足元にはうさぎがいる」(「法政文芸」)、3.野坂喜美「墓穴」(「米子文学」)
伊藤氏:鴻農映二「憲法第25条」(「雲」)、長野桃子「僕の足元にはうさぎがいる」、野坂喜美「墓穴」
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)
豆本作家として文筆家の地位をここ数年で確立してきた赤井都さんは、それ以前から各種文学賞の予選通過者として、大手出版社の純文学編集者の間では注目されていた。彼女はわたしが第1回文学フリマで出会った時には、それ以前から、街のフリーマーケットで手作り著作本を販売し、買ってくれた人の意見を聞きながら、それでも創作センスを変えずにファンを作っていた。その時の出店づくりですでに実売で実績をつくる体制ができていた。文学フリマ主催者の大塚英志氏も買いにきていた。
経歴には、建築・都市計画専攻の在学中より「すばる文学賞」最終候補(1998)、実業之日本社「チャレンジ公募勝ち抜き1000字小説合戦」グランドチャンピオン、薄井ゆうじ特別賞受賞(1998)、月刊全国誌に書評連載(1999-2000)等ライター活動、「群像」「文藝」「オール讀物」等、純文学・エンタテイメント分野の小説公募予選通過歴多数を経て、2002年より個人誌制作販売を始める。
このころから、日経流通新聞で時代にマッチした実益と趣味活動の取材にきていた。地元のNHK千葉放送局もきて、わたしもライブドアのPJネットニュースで取り上げた。
その後、 2006年、ミニチュアブックソサエティ(本拠地アメリカ)の国際ミニチュアブックコンクールで、独学で初めて作ったハードカバー豆本で日本人初のグランプリを受賞し、2007年連続受賞。独創性が高く評価された。
豆本という本の形態から内容まですべてを自分でつくる喜びに全力を挙げる生き方は、たまたた売れる作家になっただけで、たとえ売れなくてもその姿勢はかわることがないように思える。
この後、製本を本格的に習い始める(むろん、ふつうサイズの本のレッスンしか存在しなかった)。2009年池袋コミュニティカレッジ・ルリユール工房「入門」修了。2012年現在、西洋伝統的手製本(ルリユール)の「パッセ・カルトン」と、本の壊れ方を学び修理する「書籍の修理と保存・実技」を受講中。
2006年より個展、グループ展、ワークショップ講師多数。豆本朗読会、豆本がちゃぽんを主催。現在、豆本教室を産経学園銀座おとな塾、ヴォーグ学園東京校、NHK文化センター横浜ランドマーク教室、池袋コミュニティカレッジでも開講。ノウハウを惜しみなく伝授している。
著書『豆本づくりのいろは』(2009)、『そのまま豆本』(2010)河出書房新社。2007年よりMiniature Book Socity会員、東京製本倶楽部会員。2011年より日本豆本協会副会長。
(メールマガジン言壺便り2013.1.14 No.99より)
2013年を無事に迎えることができました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
マヤ暦でも新しい区切りに入るという話もありましたが、それ以上に個人的に、去年は指を怪我したことから一年が始まって、それをきっかけにこれまでの生活を見直し、ちびっこい豆本作家なのに、分刻みで忙しいなんてどこのサラリーマンだおかしいじゃないか、そんな生活やめよう、と自分の内面でドラマチックな転機がありました。作業部屋も生活空間も片付け整理して、必要なものがすぐに手に届く快適さが戻ってきました。かなりまっさらな気分です。そして、豆本界(?)としても、もう「広める」ことは私はよいんじゃないかと思います。新しく入ってくれた人が周囲に豆本を広める役になってくれることを期待して。私は私の深度を深めていこうと思います。たとえ有名であってもメジャー路線ではないです、これまでもこれからも自分らしい豆本を作ろうと思います。
作る豆本には、自分のお話を入れます。豆本に自分のお話を入れる、という縛りは年末から既に始めています。
でもまだ今年一月は、がんがん作る気にはなれません。じっと座って物思いにふけったり、音楽を聴いたり、お茶を飲んで窓から外を眺めたり、おとなしくしていたい。
『手塚治虫の旧約聖書』を読んでいたら、世界を6日で造った後、神が一日休んだとありました。漫画家には厳しい話ですが、3年休みなしで働いたって思えば、私の休暇は6か月あっていい。なのでまだエンジンは無理にかけません。
春に向けて、ゆるゆるいきます。今は、窓の外は雪。ぼた雪が15cm積もって滑り落ちました。自然を見ていると飽きません。ああ~今は冬籠り幸せ。
自分の作品は腐らない程度に待たせておけますが、教室は相手がいることなので、相手に合わせたペースになります。ちゃんと見て、言って、してみせて、を今年も心していきます。一期一会だと心して。
≪言壷ホームページ≫
☆
日本文学振興会は17日、『第148回芥川賞・直木賞(平成24年度下半期)』の選考で、芥川賞には黒田夏子氏の『abさんご』、直木賞には朝井リョウ『何者』と、安部龍太郎『等伯』の2作品を選出した。
黒田氏は史上最高齢となる75歳9ヶ月で受賞し、第70回に『月山』で受賞した森敦氏の61歳11ヶ月を大幅に更新した。史上最高齢に加え、初ノミネート、初受賞となった黒田氏の『abさんご』は、全文横書きに加え、固有名詞、かぎかっこ、カタカナを一切使用していない実験的な作品。「昭和」を舞台に知的な家庭に生まれたひとりの幼子の成長を描いている。最年長記録を更新した黒田氏は「今は受賞が遅くて良かった、という気持ちがあります」とコメント。1937年東京生まれ。教員・事務員・校正者などを経て文壇デビューを果たしている。
直木賞を受賞した朝井氏は1989年5月31日生まれ、現在23歳。直木賞史上初の平成生まれの受賞者となった。前回、『もういちど生まれる』で第147回直木賞候補となり、今回で2度目のノミネート。
安部氏は1955年福岡県生まれ。1990年に『血の日本史』を発表し、2005年には『天馬、翔ける』で第11回中山義秀文学賞受賞。第111回に『彷徨える帝』で候補となった。
〈1〉三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』―文庫書き下ろし
〈2〉村上春樹『1Q84』
〈3〉東野圭吾『プラチナデータ』―映画化決定
〈4〉東野圭吾『聖女の救済』―「ガリレオ」シリーズ映画化決定
〈5〉湊かなえ『少女』
〈6〉貴志祐介『悪の教典』―映画化
〈7〉辻村深月『ツナグ』―映画化
〈8〉有川浩『三匹のおっさん』
〈9〉湊かなえ『贖罪』―TVドラマ化
〈10〉川原礫『ソードアート・オンライン』―TVアニメ化
(出版科学研究所調べ、分冊、シリーズを含む)
(1月15日、読売新聞より)
外狩雅巳氏が詩人回廊に「私が殺した男と女たち」で参加してくれた。この作品の読後評で高岡啓次郎氏は、次のように述べている。「わずか7枚ほどの作品だが、見事に書きあがっている。最初の虫が死ぬシーンの執拗な描写は志賀直哉の『城崎にて』を彷彿させる。週に一度バッティングセンターに出かけて憂さを晴らす中年サラリーマンの仮想殺人が、実に生々しく、劇的に描かれている。見事です。」
それに同感する人が多いであろうことは想像に難くない。その一方、超短編の起承転結の構造に目を奪われがちであるが、それ以上に書く立場からすると中に流れる時間の質が2重に内蔵されている特殊な構造であることに注目したい。
まず、冒頭での雨の中の蟻の描写がある。ここでは時間は、雨降りの日の情景が文章と同時進行して、ゆっくりと進む。リアルな同時進行時間の表現である。こういう部分は、次に何が起こるか、作者は何を考えているかと読者はまず集中力をもち続ける。
しかし、この先になにか興味を引くようなことがないと読者は「だからどうしたの?」「どうでもいいじゃないか」と思い、読むのをやめるてしまうことが多い。
ところが、この作品ではその後、異常な展開をする。文章が主人公の過去の回想と恨みの情念、破壊的な幻想という心象風景を縦横に跋扈し飛び回る。ためていたエネルギーの爆発がある。
この二つの異質な時間を読者に体験させることで、非常に印象を強くしているのである。スタイルや構造は、リアリズムと幻想というありきたりなものであるが、この組み合わせを発明したことは独創的で、創作手法の道がまだまだ限りなく開発の余地があることを示す快作に読めた。
なお、外狩雅巳氏は「暮らしのノートPJ・ITO」に「外狩雅巳&二人企画のひろば」を設定した。
山川豊太郎の「都市の屑屋」(詩人回廊)は、4回あたりになると自ら都会を襲った洪水で死んでしまったという。もしそうだとすれば、ここの語り手は都市の死霊というころになる。この語り口は文章として舞踏的に読める。近代文学の初期の菊池寛は、当時「詩は不可能なことやわからないことを考えて発想するロマンティズムであるから、科学が発達し、わからなかったことが分かるようになると消滅する」という説を唱えた。これに萩原朔太郎が猛反発した。菊池寛の説はある意味で間違った。それは散文の詩的発想という形で小説のなかに組み込まれてきたからである。言葉の舞踏が小説にも入ってきている傾向がみられるのである。
山川豊太郎の「都市の屑屋」(詩人回廊)がすこしずつ進行している。この作者にとって都市はどこかが崩壊し、廃墟化しているものらしい。それでも、ビジネス施設や主要インフラは機能しているところがイロニイになって、どこかおかしい。ここでの出だしは「リヤカーを連結した薄汚れた自転車にまたがり、アスファルトに堆積される有形無形の廃棄物を拾い集めては、それを胴元と呼ばれるコミューンの長(おさ)のもとへと運搬する。」というシステムが機能しているのである。
昔の浮浪者や乞食という存在は、市民に物乞いをしていた。それが現代では、ホームレスであって乞食ではない。アルミ缶を拾い集め潰して、親方かリサイクル回収業者に売って現金を手にしている。わたしは一時期、ネットポータルサイトの記者をしていた頃、多摩川のホームレスの取材をした時もボスというか、仕切り屋がいた。
このホームレスたちには住民票がない。ということは国家管理体制から離脱した自由人である。本物のアナーキストなのである。東京都では毎年国勢調査のように、国の管理の河川敷の住民を目視でその人数を割り出す係員を動員して調べている。私はそのような視点で見るが、山川氏はそうではない。
その屑屋が、じつは都市では存在しないと思われているのではないか、という論が2回目あたりで展開される。ここまでは小説的であるか詩的散文であるか判然としない。その前に、赤ん坊のおしゃぶりが落ちてしまう。それを屑屋が拾うと途端に目的を失い意味のない物体になる。そこには物体の意味性についての思考展開の余地がある。
良く言われるが、「小説は目的に向かって進むが、詩は言葉の舞踏で到達点はない」という定義である。そういう意味では、この作品は舞踏する文章ではある。廃墟都市のイメージそのものものが詩的イメージに彩られている。(つづく)
「森は」 関中子
森は何かをかくさなければならない/たとえば 川のはじまりを/たとえば 町の家並みを/たとえば ここの特産物を/そして/わたしたちの多くの職業を
森は何かをきらめかさなければいけない/たとえば 水とだきあう空を/たとえば 畑の土粒や野菜の艶を/たとえば わたしたちの口の機能を/すると/あなたがわたしによせる理不尽な行為がすこし理解できる
森は何かをしなければならない/たとえば 恋人たちをよびだす/たとえば
ひとりでいる時間をあたえる/たとえば 生き残る術を披露する/いつかは/
一度も行ったことがないところへ行く森もわたしたちも
森はわたしたちを誘う/夜は手ほどきし/夜の心地よさをささやく/ここにあるもののほかはどれもあとから追いついたもの/どれを捨てても気になりはしないはずだ/わたしはほんのすこしの持ち物で森のわたしたちとなる
ふとひとこと/それは決心/森はわたしの居場所を案じることができる/
ここでうまれた言葉と文字で/木 木が集う/森は
(GANYMEDE56号 より 2012,年12月 東京都練馬区・銅林社)
紹介者・江素瑛(詩人回廊)
あらゆる生物の生活の営みに欠かせない森。森は生物たちの共同資源であるが、人は、森をわがものにしようとするが。森は空へ空へと枝を延びて行き、地下へ地下へと根を這い歩く。奥へと、奥へと人から逃げて行く。追掛けて行くと、きっと帰り道を失ってしまうだろう。
そして、人は森のものになるだろう。「ここにあるもののほかはどれもあとから追いついたもの/どれを捨てても気になりはしないはずだ/わたしはほんのすこしの持ち物で森のわたしたちとなる」と作者が言う。
そういえば昨年、マヤ文明の人類滅亡の予言が話題になりました。滅亡後の神殿は森の中に埋もれていましたね。
秋晴れの下で 暮尾淳
思想は/相手に勝とうとするから/つまらないが/負けという感情は/いつまでもみずみずしい/柄にもなく/そんなことを思いながら/街中を歩いていると/乾いたバナナの皮でなく/丸まった朴の枯葉を/右足が踏み/そのバシャリという音が/耳に響き/ガードの上を/電車は行くのではなく/過ぎるだけなのだと/おれは気づいた。
詩誌・「騒」第92号より(2012年12月)「騒の会」東京・中野区
☆
暮尾淳という詩人は、わたしが見るときはだいたい酔っている。詩人はたいてい酒を飲む。悪酔いしたようなこの世界とつき合うには「しらふ」ではいけないのかも知れない。ここでは朴の落ち葉が、秋の乾いた空気に折れたような音をして潰れる。鋭敏な聴覚は、ガード上を通りぬける電車の乗客との無縁のすれちがいの騒音の,耳刺すわびしさよ。酒は耳の神経を鈍らしてくれる。そこで、詩人はきっとまた、ついつい酒を呑んでしまうのであろう。
紹介者・「詩人回廊」北一郎
東京新聞のコラム「大波小波」の、匿名批評は純文学や詩人の間でよく読まれているらしい。辛辣な批評で、その筆者は誰かと憶測され、なかには匿名執筆者と誤解され、殴られたひともいるとか。話が長くなったので「暮らしのノートPJ・ITO文芸」に連載した。ことしは、これまでより文芸に力入れて、みようかと思う。
先日、TOKYOMXテレビで石原慎太郎氏と私小説作家・西村賢太氏の対談があった。そこで石原慎太郎氏が文壇の人とはくだないことを言い合ったが、最近はつまらなくなった、という話をしていた。西村氏は芥川賞をもらう前は、貯金が20万円だったが、今は2千万円だと語る。石原氏は「それじゃ小説には困るね。貧乏というのは(文学的な)バイオレンスなんだよ」と、笑っていた。
その対談で、西村氏は「石原さんの作品にはセンチメントがありますよ」と評していた。さすが本質を視ているなという感じ。作文と文芸の違いのひとつにこのセンチメントがあるかどうかの問題でもある。
第148回芥川・直木賞(日本文学振興会主催)の候補作が6日発表された。芥川賞初候補の黒田夏子さんは75歳、高尾長良さんは20歳の京大生。受賞すれば、黒田さんは1974年の森敦さんの最年長記録(61歳)を更新し、高尾さんは綿矢りささん(19歳)に次ぐ歴代2位の若さとなる。
直木賞では朝井リョウさんが23歳で、受賞すれば男性最年少。選考会は16日、東京・築地の新喜楽で開かれる。候補作は次の通り。(敬称略)
【芥川賞】小野正嗣「獅子渡り鼻」(群像2012年11月号)、北野道夫「関東平野」(文学界9月号)、黒田夏子「abさんご」(早稲田文学5号)、高尾長良「肉骨茶」(新潮11月号)、舞城王太郎「美味(おい)しいシャワーヘッド」(新潮8月号)
【直木賞】朝井リョウ「何者」(新潮社)、安部龍太郎「等伯」(日本経済新聞出版社)、有川浩「空飛ぶ広報室」(幻冬舎)、伊東潤「国を蹴った男」(講談社)、志川節子「春はそこまで」(文芸春秋)、西加奈子「ふくわらい」(朝日新聞出版)。(共同通信)
【「地の塩の聖人」宮本肇】
「地の塩の箱」運動の創始者で、詩人・作家の江口榛一が1979年に千葉の団地で自死したという新聞記事から始まる。65歳だという。「地の塩の箱」運動とは、余裕のある人は箱にお金を入れ、お金がなくて困った人はその箱の金を使って良いというシステム。一時は流行って世界の各地で実行されたらしい。奉仕の末に破滅する人生の運命人を追い、作者自らその娘さんに会って取材したドキュメンタリーになっている。また、作者が中学生時代に体験した特殊な悟りのような境地も興味深い。作者は冷静に江口を評価しているが、わたしはなんとなくドストエフスキーの「白痴」の主人公の矛盾した存在を思い浮かべ感銘を受けた。
【「含笑些話異聞(八)花占い」中村浩己】
お笑いコントネタを連載していて、ピリ辛の笑いがある。笑いをつくるのは難しい。同人誌だけですませるのはもったいない気がする。かつての私の友人は、自分の好きな噺家や漫才師に台本を直接渡しにいって、ネタに検討されたが、ネタの外部提供は現在はどういう仕組みになっているのだろうか。
発行所=相模原市南区古渕4-13-1、岡田方「相模文芸クラブ」。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一
題「語り残された物語」
川村道行さん「想像力の行く手は阻めない」(「周炎」50号、北九州市)、小野悟さん「野の果てに風は鳴る」(第7期「九州文学」20号、福岡県中間市)
「九州文学」より八重瀬けいさん「アンパン」・林由佳莉さん「貯金箱」、「周炎」より奥信子さん「土に生きる」・尾木成光さん「へんな鉄ちゃんの物語」
今年、メインで取り上げた24作品の掲載雑誌は以下のとおりである。「火山地帯」3作品。「季刊午前」、「飃」、「南風」、「詩と真実」、「九州文学」がそれぞれ2作品。その他は1作品だった。今年は岡松和夫さんがお亡くなりになり、「日曜作家」が廃刊になった。ともに残念な出来事だった。
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)
(講談社『BOOK倶楽部メール』 2013年1月1日号より)
あけましておめでとうございます。デビュー三十五周年というのは、なんとも中途半端です。これは、「あと十五年頑張って、五十周年を祝おう」という意味だと思っています。十五年後には、七十二歳になっています。その年まで生きていて、願わくば、小説を書き続けていられたらと思っています。三十五年前は、学生でした。それからいろいろなことを経験しましたが、一度たりとも小説家を辞めようと思ったことはありませんでした。この先も、ないことを祈っております。三十五年間、小説を書き続けてこられたのは、やはり周囲の助けがあったからだと思います。一人では何もできません。『欠落』の主人公、宇田川もそれを痛感しています。心を許した友人の一人が近くにいない。今、ここに、彼が、あるいは彼女がいてくれれば、と思った経験は誰にでもあるはずです。大切なものが足りない。『欠落』は、そういう物語です。(今野敏)
『欠落』は、1月7日発売予定です!
小説編<10~12月>古閑章氏
題「核に息づく人への愛情」
『二十一せいき』(古岡孝信主宰)より「村灯り」、『南風』第32号より和田信子「洗面台」・宮脇永子「台風」
波佐間義之「ヨークシャー・テリア」・岸睦子「中勘助『銀の匙』のモデルと九州」・興膳克彦「明尊の三士人」・おおくぼ系「銀色のbullet(銃弾)」・箱嶌八郎「マコべえのいる風景」・神埼たけし「耕太ととうちゃん」(以上『九州文学』第19号)
てらしたせいたろう「ニワトリ」・紫垣功「菩薩岬」・斎藤美和子「自転車でロックンロール」(以上『詩と眞実』第760号、762号)、堀江すすむ「火葬」・浜崎勢津子「吉津富子(連載もの)」・矢和田高彦「頼み事」(以上『文芸山口』第303号、305号、306号)、和田奈良子「長い三十メートル」・有森信二「鼠の告発」(以上『海』第8号)、明石善之助「双葉山に勝った男」、青海静雄「川に遊ぶ男」(以上『午前』第92号)
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)
【「わたくし小説」陽羅義光】
デザイン会社を経営する鷹野司郎という男の愛人が、鷹野の死をきっかけにして起きた彼女をとりまく人間関係を語る。肩の力を抜いた筆遣いで、読ませる。が、タイトルを考えると意味が広いらしい。連載になるようである。リズム感がよく作者が気分良く筆を運ぶ感じがあることからすると、本来の作風なのかも知れない。ニヒリズムと隣合わせの感性のエネルギーが良く出ていると感じた。
【「田中正造と幸徳秋水」崎村裕】
史実であるが、足を使ってよく調べたことをそのままぶっつけるのではなく、こなれていて分かりやすく、散文精神が発揮されたもの。史実的にも勉強になった。以前は論文調の文章の作家という印象を受けたが、印象は変わって感心させられた。田中正造の実直さや幸徳秋水のイメージを変えるような視点もあって、重要な資料となりそう。
【「虫と花と人」畠山拓】
散文精神による散文で、東西の文学作品に対する趣向を活かしながら、70歳の文学的な感性で世間を語る。伊藤桂一氏の小説作法にある手法からすると、現在と小過去、中過去、大過去を出し入れ自由にして、のびのびとした筆が読ませる。散文に徹してどうでもよいような話を、ひきまわして作者が読者と勝負する気概も見えて、なかなか面白かった。
【「織田作之助を訪ねて(二)」藤田愛子】
オダサクの生前の交流を描いて、つややかな筆運びが興味深い。とくに肺を悪くしているらしいオダサクの胸骨の出た姿が、なにやら格好よく見えるのが不思議な筆力が魅力的。
発行所=〒389-0504長野県東御市海善寺854-96、「構想の会」
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一
(講談社『BOOK倶楽部メール』 2013年1月1日号より)
人生には果たして生きる意味があるのだろうか。意味なんかないかもしれない。なくてもいい。なくてもいいが、生きていればかならず苦難に遭遇する。
その苦難をどうやって脱出するか。その苦難と向き合い、のたうち回って闘う時、人は初めて「生きる力」というものを意識する。自分の意識と全神経を一点に集中させ、それを持続させ、可能なかぎりの幸運を招きよせ、全知全能をかたむけて苦難と闘うという意志。この「生きる力」とともに闘う時、人はいやおうなしに、一個の生き物としての、抗いがたい生命力につきあげられる。胸の奥底から歓喜の声が湧きあがる。歓喜とともに闘えばかならず勝てる。
勝利だ。自由だ。復活だ。
この喜びを抱きしめながら、人生の意味なぞを問うことの愚かしさ。人生には生きる意味以上のものがあることを知るだろう。そんなことを伝えたくて、この本を書いた。 (なかにし礼)
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あけましておめでとうございます。ことしは、みなさんからのコメントをいただいたら極力、本文にまわして再掲載するつもりです。この試し読みというのは、なにか店頭で立ち読みするようでいいですね。(昭一)
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