詩の紹介 「賃金五十年」矢野俊彦
「賃金五十年」 矢野俊彦
中国の縫製工場が/閉鎖されたという/労働賃金が上がったからだという/月給三万円/フイリピン一万七千円/ベトナム一万五千円/ミャンマー五千円/労働賃金の低い方へと工場は移る
頬を赤くしてミシンに向かう/ミャンマーの少女/賃金を貰ったら親に送りますと/健気にいう
わたしが集団就職で/上京した昭和三十四年住込みで月二千円/十九歳で三畳の下宿に移った時/月の賃金七千円/部屋代三千円
国鉄に入って日給三百五O円/月十五日と月末の二回支給/いつも貰える額は五千円未満
その頃月給一万三千ハ百円という歌が/巷に流行った/大学初任給の額/それさえ中卒には憧れの賃金/昭和四十年代のこと
メイド イン チャイナ/メイド イン ベトナムの/タグを透かして/頬の赤い少女を思う/己の五十年を思う
(2012年6月)
国鉄詩人258号より(2012・9・1神奈川県 国鉄詩人連盟)《参照:矢野俊彦の庭》
紹介者・江素瑛 (詩人回廊)
もう自分の働きで食べていけると、初任給の思い出が感無量です。はじめて貰ったお給料は、かつては親に渡す人も多かった。生括水準の上昇、物質の豊富さ、誘惑も多い現代、時代とともに増える収入が、生活のために使うだけで足りないくらい。
日本の縫製工場が海外に安い人件費を求め、工場が移転することを理解する一方、自分の半世紀の色褪せない青春の思いを工場の頬赤い少女に託す作品です。
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