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2012年9月 3日 (月)

豊田一郎「白い花の咲く頃」の勝又氏評と解釈の視点(1)

「季刊文科」56号の同人雑誌評で豊田一郎氏の個人誌「孤愁」に触れ、次のような評をしている。
『「小説なら、自分の想いを描ける、自分を表現できると考え、小説の道を選び、それを私なりに、私のなりわいにしてきてしまった。それが、そもそも間違っていたのかも知れない。結局、小説は書けなかったのかも知れない……」とは、豊田一郎の個人誌「孤愁」(10号、横浜市)の「編集後記」の一節。
 すでに長短編小説16冊もの作品集を持つベテランの書き手の一人である。半世紀余も書き続けてきてなお、こういう自問自答から卒業できないわけだ。他人事とは思えない人も多いはずだが、言うならばもの書き人間の宿業であるだろう。この作者のこうした純情と熱情に私はいつも敬意を抱いているが、それでも、そのことと作品自体からの感想とは別なのだ。
 今号の「白い花が咲く頃」は、人間の介護専門に作られた女性仕様のロボットが主人公。一目はロボットとは見えないほど精巧に作られていて、家事全般をこなすほか、学習能力もあって会話もできる。現代なら誰もが考えそうなことだが、問題はそこから先をどう展開するかであるだろう。小説としては、彼女(?)がどんな表情どんな声で、どんな話し方をし、どんな歩き方をするのか等々、外部からの視線、描写があれば内部の奥行きも深まると思われたが、作者にそういう考えはなかったらしい。当人(?)と先輩ロボットと雇い主との会話に終始していて残念である。それは結果的に、作品全体を日記のなかの対話のような、結局は作者の想念の中に納まってしまうと見られるからである』
<作品は「詩人回廊」「「白い花の咲く頃」(「電動人間」連作)として掲載>
 作品は、たしかに、同人誌小説として読むと、それは当っている。たしかに登場人物の人間の、感受性や自己主張が見えない。
 だが、ここでは、規格統一されたロボットが語り手とする設定であり、その論理にしたがって人間的な感受性を最低限の範囲に抑えられている。つまり、自動化された社会がいかにつまらないかを描いたSF小説としての視点をもつことによって、自ら生み出した文明の人間性の自己否定的な側面に焦点を当てたものと読むことができる。(つづく)

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