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2012年9月10日 (月)

豊田一郎「白い花の咲く頃」の勝又氏評と、その読み方の考察(2)

 純文学小説のひとつの前提には芸術性と人間性の探求にこだわることが求められる。それに人間的な葛藤や苦悩の表現を加えることで面白さを創造する。その意味で、作者の豊田氏は、いくら工夫しても論理的な矛盾を含むしかない「人間的な感情をもったロボット」という、語り手を設定している。だから小説にしたのであろうとも理解できる。
 原理的にいうとこの作者の発想は、現実から遊離した詩的発想なのだ。そのため、現実にべったりくっついたリアリズムの世界を描く同人誌小説としては、面白くない話になってしまう。
 わたしがこういうと、説得力を感じない人もいであろう。そこで、詩人・西脇順三郎の詩論を次に記します。
「詩は現実に立っていなければならぬ。しかし、その現実につまらなさを感ずることが条件である」
 豊田氏の作品で、ロボットが人間が生殖行為をすると「股の間から花でも咲くのかしら」ということを語り合う場面がある。――花という生殖器の一種と人間の生殖器との結びつけた、現実には関係づけられないものを関係させた詩的表現になっている。
 現代文明においては、喜怒哀楽の感情を備えたロボットは存在しない。そこで、作品では、人間的な日常作業を自動化し、ロボット化してデーターの集積で、人間的なロボットに改造していく設定になっている。
 SF小説それ自体、詩的発想のものであり、小説は叙事詩として表現されることが多い。
 作品では、ロボットを監視要員にした管理社会になっており、主人公はそのシステム管理下に置かれ、老齢化が進むと強制的にどこかの介護施設に入居させられるような社会の姿が浮かんでくる。そこで、主人公はそれを拒否するささやかな抵抗を示している。
 じつは米国では、(たしか昨年)すでに現実に、調査会社が宣伝効果を測定するサービスを開始したという。「プロモ・オプティマイザー」サービスといって、全米6万9千人の調査対象者に「ポータル・ピープル・メーター」という携帯型の計測機を身につけてもらい、彼らがどんなテレビ・ラジオ、街頭ディスプレイ情報などとどのような接触をしたか、そのデーターを発信する。利用者はその多様なデジタル情報のうち、必要とする情報を選んで、データーとして収集できるのである。
 豊田氏の作品の予言性を、事実が追従しているとも見られる。
 SF小説の定義には「人間理性の産物が人間理性をはなれて自走することを意識した文学」(柴野拓美)だそうで、まさにこの定義に当てはまる。
<ここに論評された作品は「詩人回廊」に「白い花の咲く頃」(「電動人間」連作)として掲載されています>

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