山川豊太郎の散文に読む崩壊都市の世界(4)
前に詩は言葉のダンスであり、小説は目的に向かって合理的にまっすぐ走りぬける散文であるというような概念を述べた。
ここで「詩人回廊」山川豊太郎の「繭(コクーン)version3」を例にとってみると、崩壊都市におけるサキュパス社との雇用関係は、以前にも同じ話がでている。話が元にもどって繰り返ししている。さしずめ音楽でいえばフーガか舞踏のように同じ話が繰り返されながら、すこしずつ状況が変化していくという手法がとられている。
作者はこうした方法が頭に浮かんだのは南米の小説手法にマジックリアリズムというものがあるそうで、無意識にその影響を受けたのかも知れないとしている。
こういう手法というのは19世紀的な小説とはかなり距離をおいたものである。しかし、19世紀の伝統をうけつぎながら現代にふさわしい表現を求める作家は常に存在する。
物語の構造から逸脱した詩的世界を散文のなかに見出そうとする動きは、サルトルの実存主義小説やヌーボー・ロマンというフランス文学のなかで試みられている。ビュートルの「心変わり」という作品は、ついに読者を主人公に強引にかかわらせるためか、また状況描写をかなり省略できる可能性をもつためか2人称小説を考え出した。
ビュートルの「心変わり」では
『きみは真鋳の溝の上に足を置き、右肩で扉をすこし押してみるがうまかう開かない。』(清水徹訳・岩波文庫)
ではじまる。ーーへえ、そうなのか、である。
ガラス窓の向こうで起きた出来事をみるように、現実離れしたものを見るような感覚をもつことがある。水族館で深海魚やサメが泳いでいるのは現実だが、本当はそんなことは体験不可能なことを体験できる状況である。リアルでありながら現実にはない世界なのである。
山川豊太郎の「コクーン」のおいて、ぼくという人称を「きみ」しても十分読めるのである。そこには言葉のもつ現実の再構成と架空のなかの真実性の2面を包含できる。ただ表現での弱点もあるが、それ読めばわかる。
たとえば、なにかの文章作法で読んだ記憶から例をとると「犬が青い顔をして逃げ帰ってきた」という表現があるそうである。
人間が青い顔をするというのは、現実にあり、常套句になっているが、犬は現実には青い顔をみることはない。しかし、その架空性のなかに、あるかもしれないという真実性をもつ。
「コクーン」は、リアリズム詩から、架空性の仕切りをつけた散文を小説として書いているのではないかと思わせる。
「詩人回廊」の編集のなかで、豊田一郎の庭「白い花が咲く頃(電動人間・連作)」を編入したのであるが、この作品を読んで、これもまた架空性の向こう側にリアリズムを持ち込んだ散文的小説であったのには、偶然であるが、多少の驚きではあった。
「電動人間」においては作者が自分の作品が「(観念とイメージの表現であって)小説であるかどうかわからない」としているのも、それがリアリズム的な散文であることを示している。ただ、不自然的な都市を舞台にしているのは、山川氏の作品と共通している。
方法論的な関心をもてば、面白く読める。ただ面白がる人はそう多くはないかも知れない。
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