同人誌「石榴」第13号(広島市)
暑いのは身体と頭に応える。ぼんやりしながら、つんどくになった同人誌からなるべく薄いのを選ぶと、本誌が出てきた。
【「全身昭和」木戸博子】【「めくるめく一日」同】まず、自らの入歯の話題から2作とも父親の晩年と死を描く。題材は以前の号と同じだが、角度を変えている。よく追体験できると、娘としてのこだわりに感心する。介護保険のない頃らしく、私の介護生活時代と重なるものがある。このころは、老化による感情爆発、感情失禁症状や認知症について、家族も病院関係者もよくわかっておらず、介護をめぐるトラブルは多く、そうした時代ならではの家族の感情や親への観察描写が冴えている。
あの時代のどたばた劇は、そのものが親との貴重な交流であったことが作品に示されている。現在のような制度では、粘着度や密着度が異なるのではないか。いずれにしても、親の死を直視することは、自らの死にゆく道の風景を見つめることになるのだな、と思わせる。
それはそれで良いのだが、書く立場からすると普遍性が不足しているのではないか。父親の娘としての立場からしか書いていない。自己表現の域である。きっと、読者は巧いとか、デテールに身につまされるとか褒めるでしょう。身につまされれば良いのか。老いて孤独で死んでゆく親と自分と民衆への俯瞰精神につながるものが欲しい。
【「懐かしのシネマ・ストーリー」高雄雄平】
そのままで、ほんとうに懐かしい話である。日活映画なのに大作映画の思い出があり、スチーブ・マックイーン「拳銃無宿」など、短編ドラマなのに充実感。とにかく当時はなぜか時間が沢山あった。
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コメント
木戸博子さんのこの作品は読んだことがないので、的確な事は申し上げられないのですが、私も以前、父の看護手記を出版したものですので、ちょっとコメントさせて頂きます。
この作品はエッセイだったのでしょうか?それとも小説の形だったのでしょうか?前者なら普遍性を問うのは難しいかと思います。時間が経過しても娘である『私』から見た父は変わりようもなく、あくまでもひとつの事例として書くしかないのでしょうか。そこから普遍性を読み取るのは読者の自由ですが。
私自身、父の立場に立ったら自分達が行ってきた事はいったいどうだったのだろう、といつも思います。余裕と力があれば、一度父の立場での作品を書いてみたいと思う程です。おそらく、その時には主人公は父となり、父の考えを想像し、想像から創造へとつながる事である程度普遍性も備わるのでは、と思います。
木戸さんの作品では『クールベからの波』を拝読しました。深い知識と考察、切れの良い文体に感銘を受けました。
投稿: 庄野ひろ子 | 2012年11月28日 (水) 10時25分