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2012年7月26日 (木)

文芸時評(朝日新聞12・07・25)作家・詩人 松浦寿輝氏

「『部分』と出会う」「終わらなくても面白い」
≪対象作品≫
村田喜代子・新連載「屋根屋」(群像8月号)/阿部重和「クエーサーと13番目の柱」(講談社)/本谷有希子「嵐のピクニック」(同)/小川洋子「最果てのアーケード」(同)/佐飛途俊「さいあたってとりあえず寂しげ」(群像8月号)/丹下健太「顔」(すばる8月号)/苅部直「安部公房の都市」(講談社)。
(一部抜粋)――小説とは何をどう書いてもいいように、何をどう読んでも許されるジャンルのようで、実際カフカの長編など、任意の数ページを行き当たりばったりに読んでもそれはそれで非常な昂奮を呼ぶ。小説に「全体」や「始まり」や「終わり」がはたして必要なのか。
そんなことを改めて考えてみたくなったのは、「新連載」と銘打たれた村田喜代子「屋根屋」の冒頭部分の名状しがたい面白さを前にすると、もっともらしい締め括りでもって結構を整えようとやっきになっているあれやこれやの短編群が、何か小心翼々とした工芸品に見えてきてしまうからだ。――

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