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2012年6月18日 (月)

松本道介氏の芥川賞作品論評と東京新聞の「大波小波」

 6月15日「東京新聞」夕刊に雑誌「季刊文科」56号の松本道介氏の論評「芥川賞の末路」について書いている。そこでは、松本氏が先の「きことは」「苦役列車」を、退屈で砂を噛む思いがした、と容赦なく否定。前回の「共食い」も、生理的に受け付けないという宮本輝評のに同意し、他の選考委員らえの疑問も隠さない。」という姿勢であるのは、「意識に過度の隔たりがはないかーと疑問を呈し、「季刊文科」が優れた文芸誌であるから、余裕や幅のある姿勢をもったどうかーーという意味のことがコラムになっている。
 松本道介氏は、同人雑誌評では、19世紀の近代社会私小説におけるリアリズム手法を支持する傾向がある。苦役列車などは、その私小説の部類だが、世代がちがうので、追及するテーマと題材に関心のちがいが出るのは仕方がない。
 単に松本道介氏が旧い感覚の価値観だからというわけにはいかない。古典は古い価値観だが価値はある。
かつての純文学は、出版社を支える産業になりえたが、いまでは衰退産業である。ゲーム小説のほうが市場性がある。そうなると芥川賞などの受賞作品が文学のすべての傾向を反映するわけでなく、あまりむきになって否定するほどの位置にないような気がする。なにはともあれ商業流通システムに乗っているので、1000人から2000人の読者はいるであろう。それだけ目に止まれば作品といえる。
 それよりも読者のいない同人誌作品をどのようにすべきかを考える時期ではないかと思う。
 ここで、読者のいない同人誌というのは、同人誌の仲間を読者にいれないからだ。彼らは義理で読んでいるだけだ。書店に入った読者は、義理で本を買うであろうか。親戚ならべつだが。同人雑誌が出来上がると、同人は自分のものから読みはじめる。まず、他人が読む可能性があるものとして、じぶんの書き物はどう読めるか確認をするのであろう。だからそれまでは、書き物であって作品ではないのだ。
 こういう書き物は作品としては大変、脆弱な位置にある。読者のいない書き物は作品になってないのではないか。
 このサイトのコメント欄に、根保孝栄・石塚邦男 氏が「本来小説は頭を使って読むものではなく、寝転がりながら読むものであって、額に皺を寄せて気難しく読むものではないはずなのに、文芸評論家は小説をこねくり回して観念的に捉えようとし過ぎているのではないかという疑問…」としてるが、まさにつまらない同人誌の書き物を無理に読んで、作品として扱うことに疲れたためであろう。(数々のコメントいつもありがとうございます)
 文芸評論とは、読者に読みどころを示し、人生を彩り豊かに過ごす手段としての文学藝術の意義と楽しみ方に道をつくることである。問題はそれを求める人がどれだけいるかである。それが少ないということは衰退藝術であるということから免れることはできない。
 なぜこんな話を長々とするかというと、自分の編集する「詩人回廊」の編集精神と関係があるからだ。続きは次にしましょう。
 転居したので事務所が遠くなった。荷物の整理が済んでいないので通う回数が減った。すると、「雑誌らしいものが届いてますよ」と事務所から電話があった。きっと、書き物から作品にしたい人たちからのものだと思う。
 そこには、読者のいない書き物は作品ではないのではないか、と思う問題意識がある。

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コメント

東京新聞の指摘、松本道介の指摘共にちがった意味で現在の文学状況を指摘したもので、どちらも当たらずとも遠からずの指摘であろうと思います。文壇に足場の比重を多く置くか、同人雑誌の応援舞台で発言するかで、ものの言い方も違ってくるでしょう。
どちらが正しいか間違った認識かではなく、文学作品に向かう姿勢と好みの問題でしょう。
伊藤さんの立ち位置のご意見も明確にお聞きしたいものです。
しかし、色々な意見を述べ合うことによって、新しい別の視野を発見できるかもしれないと期待したいものです。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2012年6月19日 (火) 02時22分

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