「祈りから作品に」豊田一郎「孤愁」第8号の編集後記から
豊田一郎氏の小説「電動人間」が「詩人回廊」で連載修了。その連作の「白い花が咲くころ」の連載に入った。
「電動人間」は、豊田一郎個人誌「孤愁」(8号)に収録されたもの。本来は次の「孤愁」(9号)があるのだが、連作としては、同10号の「白い花が咲くころ」が良いというので、連作であることを付記した。
たまたま、「季刊文科」第56号2012年5月25日発行「同人雑誌季評」の勝又浩氏の評で、『豊田一郎の個人誌「孤愁」(10号、横浜市)より「編集後記」・「白い花が咲く頃」』がとりあげられている。
個人誌「孤愁」には、毎号編集後記がある。作品よりそれが興味を惹いたというのは、それなりに強いメーッセージ力を発揮しているということでしょう。
なお、豊田氏は個人誌「孤愁」10号の在庫がまだあるという。評論された編集後記を読みたい方は、文芸同志会あてに40円切手4枚200円分を送付していただければ、転送します。前回の8号「電動人間」の分は1人いました。
8号の編集後記にも、なかなか興味深いことが書かれています。その一部を引用します。
「(前略)作品は面白くなければならない。読者に伝わらなければならにという努力を放棄してしまった。だから私の小説は面白くない。そして、また、私の作品からは癒しがえられないともいわれている。
そうだろう。私は誰かのために書いているのではない。自分の想念を纏め上げているだけである。(後略)」
つまり、これは、小説と銘打って、自己表現をしている産物であるかも知れない、と自覚しているのだ。そして、
「(前略)それは私自身への祈りであるからと言うしかなかろう。(後略)」
さて、祈りは文芸作品であり得るのであろうか? このような考えがうまれるのも、この「孤愁」というものが個人誌で、それを義理でも読むであろう同人誌仲間を持たないからであろう。
前にも述べたが、同人誌仲間というのは、自分の作品を掲載する媒体をつくるために寄り集まったのであって、その根底には、読んで欲しいのは、自分の作品のみなのである。それでも、義理で読むから、仲間の作品の良き理解者であるとは限らない。擬似読者なのである。豊田氏は自作のの作品が面白くないと評価されたとしているが、それが正しいとは限らない。
ただ、いえることは「電動人間」は、「詩人回廊」に掲載することで、「祈り」から「作品」としての足場を確保した、と私は考えたい。豊田氏は「それは我田引水すぎる」いうのであろうか。
ただし、この引用部は、わたしの発想の資料として役立つところのみですので、豊田氏の述べようとしたこととは離れるところがあるかも知れません。全文を読んで確かめたい方は、切手200円分で申し込んでみてください。
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