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2012年5月26日 (土)

山川豊太郎の散文に読む崩壊都市の世界(3)

 山川作品に表現された崩壊都市のイメージには現代の社会の状況への見方が反映されているように思える。それは、連作である2010年の作品「パノランマ館」の冒頭にも示されている。自然災害の洪水、テロと暴動に見舞われた都市において、崩壊の道をあゆみながらも市民の多くは日常を営んでいる。どこかが崩壊していながら、都市構造が存在し廃墟となっているわけではないということである。
 作者は中東における「アラブの春」の政治状況や東日本大震災を予見していた意識はないであろうが、彼の創作上の詩的イメージに現実があとから追従してきたような部分も見られる。
 異常事態の日常化の時代がここに表現されている。人間社会には常態として把握できる姿の期間は、思い込み以上に短いのである。
 情報化社会というのは、人間のつながりや絆の強化に役立つというのは幻想で、群集の細分化、隔絶化を促進しているのである。
 シリアをたびたび訪れているというジャーナリストでアラビア語翻訳、通訳者の重信メイ氏の情報では、革命派と旧政権との戦闘状況が世界に伝えられているが、それは部分的な地域で大部分の市民は平穏な日常生活を送っているそうである。
 しかし、山川氏の崩壊都市のイメージの先には、現在の過去に繁栄した都市が、現在は廃墟となって歴史的な資料として観光資源になっている事実への視線が存在するようである。廃墟になる前の崩壊都市の姿を昔のライカが、その時代の証言者として記録する。その記録のほとんどは断片化してゴミとなって消滅するが、作中のぼくの存在時間よりも長いものがあると、予感しているようだ。
 作品に登場する、「株式会社サキュバス」と、ぼくとの関係も、会社という存在が社員にとっていかに無機質なものであるかを示している。
 小説を構造をもったものとして読むと、意味が不明に思えるかもしれないが、詩的直観による散文として読むと、その底に作者の歴史観に対する信頼があるのがわかる。

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コメント

小説の物語構造をどう捉えるかが問われている今日、あまりにも小説というものに可能性を期待しすぎるのではないかという気がする。
小説は哲学でもなく宗教でもない俗っぽいものだという本来の認識からかけ離れて、小説の可能性を無限に過大評価しようとしているのではないか。

本来小説は頭を使って読むものではなく、寝転がりながら読むものであって、額に皺を寄せて気難しく読むものではないはずなのに、文芸評論家は小説をこねくり回して観念的に捉えようとし過ぎているのではないかという疑問が、最近自分の中でふつふつと発酵しているのであるが・・・

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2012年5月29日 (火) 04時18分

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