山川豊太郎の散文に読む崩壊都市の世界(2)
もちろん「繭(コクーン)」は小説として読むのであるが、それを散文とするのは「詩人回廊」編集人の文芸観による。
現在、書かれている詩には、物事や事実をリアルに描写し、行を変えて羅列するものが大部分ある。行をわけなければただの散文である。これは詩として異端的な形式である。俳句などはそうはならない。短詩として優れたものが多くある。
野間宏はヴァレリーの詩論において、「詩をダンスにたとえ、散文を歩行にたとえてその違いを明らかにしているが、ダンスはダンスそのものが目的であって、ダンスをしながらどこかへ到着しようなどという、ダンス以外の別の目標はもっていないのである」と説く。
たとえば、お笑いの「駄洒落」なども詩的な言葉のダンスであろう。小説の地の文にダジャレは少ない。
小説の文章は、何かを語るためにどのような手順が効果的かを考慮しながら書く。そのため、小説の物語性には、一定の山や平野や谷のある構造をもつ。通常はミステリー小説が謎をつくり、それを解読するというシンプルな構造によって、わかりやすく多くの読者を獲得している。純文学で広く読まれるものには、この構造をもってわかりやすい要素を持っていることが多い。
ところで、小説を歩行にたとえるならば、歩くということについては両脚を交互に動かす動作である。それをマラソンのように走るということになると、短い距離では選手も一般人も同じに見える。しかし、長い距離を目的地まで走行すると、そのスピード、走るフォームに根本的な違いがある。文芸でも、文字表現では同じに見えても、書くための筋力やスタイルに基本的な違いがあるはずで、それを見分ける視線もつことは書く立場では重要である。
同時に、書く筋肉は常に鍛えていないと衰弱する。そういう意味で、評論家的な立場で山川作品に冷静で冷ややかな論評をしたからといって、編集人の優位性を示すものではない。鍛えたものほど優位に立つ可能性をもつ。
そこで言えば、「時計台」を執筆した時点の作者は、詩的イメージが強い割には散文的な筋力がそれほど強くなかった。それが徐々に筋力がついて、表現しきれなかったものが表現可能になるため、作品への姿勢が変わってきている。山川氏の「崩壊都市」シリーズは、そのために方向性が変節している過程が読める。
筆力に応じて書き方と形式が変わってくるのである。
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