拾い読みから全体読みにいくのか?「詩人回廊」の動向
もともと文章表現技術として、詩及び詩的散文の場であった「詩人回廊」は、評論や旅行記としても活用されるようになった。これは当初の発想からは、変容している。ここへきて、新聞連載小説にあるような「連載」を試みようとする動きが出てきた。
これを一部の拾い読みから作品全体を読んでもらう、というか、読ませるための技術の鍛錬の場にしたらどうか、という方向転換、方向拡大に変容させてきている。最近では「豊田一郎の庭」が生まれた。豊田氏には大分以前から、当会の試みに参加するように働きかけてきたが、「あなたの新しい試みには敬意を表するが…」という調子で、いずれも断られてきた。
豊田氏は「孤愁」という個人誌を出している。その文章の粒立ちの良さから、連載小説にして不特定多数に読むようにしたら良いのではないかと思っていた。今年になって、ほかの会員からも長編連載を意識したものが出始めたので、豊田氏にまた声をかけ、しぶしぶというようなところを強引に参加してもらった。
文章の粒立ちが良いというのは、書店で立ち読みするように、一部を読んでなんとなく全体を読みたくさせる要素のことである。
現在のところ、出だしは好調である。「電動人間」では、生活の世話をしてくれていた奥さんが亡くなって、身の回りの世話を自分でやるようになったところからはじまっている。
偶然に編集者のわたしは、ここへ来て家の者が車椅子生活になって(介護度3だそうである)、身の回りやゴミ出しを自分でやるようになってしまった。燃えるゴミと燃えないゴミ捨ての日のカレンダーに関心を向けるようになった。それを知っている会員からは「あなたのことじゃないのか」といわれたりする。
だいたいの企業・団体は3月が期末で、頼まれ仕事の契約もここで切れる。ここらで文学に力を入れようと思って、活動を活発化させるつもりだ。
4月から「山川豊太郎の庭」も長編連載を開始をはじめた。言葉による表現において、読者と書き手との関係はどういうものなのかを考えるのに「詩人回郎」は実験の場にしたい。
「詩人回廊」のシステム【参照:文芸同志会のひろば》
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