« 識者5氏による2011年の3作 | トップページ | 詩の紹介 「畑」 石野茂子 »

2011年12月20日 (火)

埴谷雄高の「自同律の不快」を考える 

 埴谷雄高の作品で「『死霊』をのぞく全文学作品を集めたと吉本隆明が解説する短編小説集「虚空」(現代思潮社)の奥付には、一九六〇年十一月二十五日初版、一九八〇年一月三十一日第二十四刷発行とある。あとがきで埴谷雄高は、「最初の『洞窟』は戦前の同人誌にのせた古い作品でいまは絶版になった月曜書房刊行の「不合理ゆえに吾信ず」のなかにすでに収められていたものである。』と記している。
 吉本隆明は、現代思潮社「洞窟」の解説で「埴谷雄高の『死霊』をのぞいた中編・短編小説は、あらまし二つの系列にわけることができる。ひとつは、いわば意識の純粋経験ともいうべきもので、『洞窟』『意識』『標的者』などの作品がこの系列にぞくしている。もうひとつは『深淵』『標的者』のように政治思想を展開した作品である。」とする。
 さらに「このいずれの作品も、原体験となっているのは独房生活であり、それにつづく十五年戦争期の、もっとも優れた自殺の方法はじぶんが生まれてきたはずがないとおもいこむことだという現実体験にほかならない。日本のマルクス主義思想が、全現実を喪失し、一点にとじこめられたひとりの人間の意識内におかれたとき、それはどのような方法をあみだしたか。
 埴谷雄高の場合ひとつは、無限に想像世界を領有しようとする意識の実験に向った。『洞窟』では、壁に肩をつけると、左肩だけが急速度に冷えてゆき、その冷えが意識内部の凍ってゆくような冷えとかさなり、そのあいだじゅう熱病に冒されたような状態で本質的な不快感、存在がただ存在していることのために感ずる不快感を体験することからはじまっている。」と解説している。
 「洞窟」という短編では、吉本隆明の解説部分に続き、想念をつぎのように表現する。
「《壁のせいかな。いや、奇妙なことだ。》と彼は秘かに呟くのであった。《こいつが俺の思索をとめてしまった。――まあ、俺はそういいたいのだろう。ふむ、待て待て。自分でもしかといえぬ考え――いおうとしていい得なかったことども。こいつを俺はいつからひき摺っているのか。あっは、このろくでなし奴!》」
 「あっは」という間投詞はすでにここに使用されている。だいたいにおいて、人間の抽象概念への思索というのは、どれほど継続されるものなのか。その限界以上にこの主人公は思索をしつづけようとしているのではないか、という疑問を感じるところでもある。
 そのあと、作中の「俺」は、隣の十四、五歳の少女とぎこちない出会いをする。その少女が井戸端で唄を低い声で唄っているのを聞くと屈辱を感じる。
「《何て恥知らずな執拗な意志だろう。俺は思いき切り恥知らずなことがやってみたくなったぞ。ぷふい、行きどまりの迷小路につきあたって反省してみるということを知らないこの力に、思い切り頬うちを食わしてみたいのだ!》」
 こうして読むと、思索の過程において、なんら前進や展開の見通しがつかないときに、間投詞の「あっは」や「ぷふい」が飛び出すようだ。そうして、「俺」の存在観の記憶は子供の頃に高見の場所から飛び降りて、足が折れた時の幸福感にあるという話になる。その痛みこそ自己存在の確信なのだ。

|

« 識者5氏による2011年の3作 | トップページ | 詩の紹介 「畑」 石野茂子 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 識者5氏による2011年の3作 | トップページ | 詩の紹介 「畑」 石野茂子 »