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2011年12月14日 (水)

埴谷雄高の「自同律の不快」を考える 

 ここで浮き彫りにされている現象は、人間が社会的な存在であり、他者の存在によって自らが存在できるという特性である。母親から授乳される赤ん坊は、しっかりと母親の乳房を握って離さない。それは乳房が自分のものであり、他者に渡さないという自己所有の主張である。もし、この世界に自分だけが単一に存在しているならば、世界がすべて自己で、他者が存在しなかったならば、自己所有の主張をすることは意味をなさないであろう。
 その点で、埴谷雄高の表現した「自同律の不快」は、現在的な自己認識状況への道筋を欠いているものがある。
 「自同律の不快」という概念は、すでにかれの小説の習作の時期において、意識に存在していた。人間は「俺は俺である」という認識の在り方しかないために、人間存在の限界がある。未来への展望がこの単一的な認識に縛られ、人間の社会形成力の限界があるのではないか、と思い至る。埴谷雄高は、人間の利己主義に基盤を置いて、共生的な社会の形を発展段階的に捉えて構想するマルクス義思想をたどり、自らの思想を展開したのではないかと思う。
 埴谷雄高の『死霊』は、「この世界にあり得ぬ永久運動の時計台」の存在を示し、「nowhere,nobodyの場所から」「虚妄と真実が混沌たる一つにからみあった狭い、しかも底知れぬ灰色の領域」から出発する。
 その中に表現されている「あっは、俺は、俺達はそれを、存在の永劫の秘密をついに解き得ただろうか」「そうだ、ぷふい! 確かに解いたのだぜ」という、独特の表現は、同人誌「構想」に掲載された短編「洞窟」において採用さているのである。文芸評論家・沼野充義の評論によると、これは、ドイツ語の間投詞にあるものだそうである。

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