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2011年12月10日 (土)

埴谷雄高の「自同律の不快」を考える 

 「空」の基本になっているのは「諸行無常、常ならん」の概念で、そのものがないのではなく、変化している状態の会得である。
 埴谷雄高によれば、かれの台湾における経験が、人間の意識に含まれている差別感や傲慢さを嫌悪させるトラウマになっていたこと。また、当時は不治の病であった結核に罹病したことなどが、「自同律の不快」という概念に接続させたのではないか、と思わせるのである。
 この「自動律の不快」を現代における普遍的な感覚に結びつけると、何に相当するのであろう。作品中において、その小説的、世俗的な表現を読み取るのは難しい。「死霊」が思索の物語でありながら小説的でないところの所以である。それをもって「虚説」とでも言うべきか。
 思索上の「自同律の不快」については、物語の要素ではある。しかし、登場人物の現在における自己存在の在り方に対する、認識の説明がないため小説的でなくなっているのである。
 もし、これを人間の無意識に横たわる「自己存在の現実の否定」、「自己存在の現実への嫌悪」の感覚に転換すれば小説的であったはずである。
 埴谷雄高はもしかしたら結核という、当時は不治の病とされた病気であったこと、また、社会体制が弾圧的であったことによる自己存在への不快を「自同律の不快」に重ねあわせたのかも知れない。
 人間には、現在の自分の存在に不満をもつという特性がある。よく、人間性に肯定的な表現として「夢見る力がある」というフレーズがある。しかし、なぜ人は夢をみるのか。もちろん現実にはそれが、それが実現していないからである。自らの存在環境が限定されているために、現実への否定、嫌悪が夢を見させるのである。
 美容整形、肉体改造、可愛い系ファッション、消臭スプレーなど現代におけるビジネス活動で隆盛するものに、現実における規定された自己存在からの脱却である。

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