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2011年12月22日 (木)

文芸同人誌「奏」2011冬(静岡市)

【評伝「小川国夫―最終回」勝呂奏】
 評伝にもいろいろなスタイルがあるが、この連載では小川国夫の独特の文体の生まれた背景や経過を明らかにする姿勢があり、ものを書く人のための評伝という色合いが濃い点で興味が尽きない。読みやすさ、判りやすさがある。それは同時に、文芸になぜ純文学のジャンルが存在するか? というこだわりが含まれて、示唆されるものがある。
 小川国夫といえば短編作家であると思っていた。晩年の長編小説完成の話題にも、資質が変わったという程度の知識しかなかった。それがこの評伝によると「弱い神」というのは、ただの長編ではなく、「『試みの岸』と同様にフォークナーのヨクナ・パトファ・サーガを模した、駿河西岸を舞台にした壮大なフィクションの現場に、読者は参加することになったのである」という。
 そのあとに、三十代に本多秋五に「肯定」してもらったことの小川の喜びなどが、活き活きと記されている。
 栄光に照らされた作家の手法に、感心するというのは、お門違いであるが、自分は自分なりに「純文学というものが、短編で書き散らしただけで済むものか」という疑問があって、終りのない自分だけの小説の制作について考えていただけに、ひとつの制作法として、参考になった。
 要するに、純文学的表現における散文のどこが作文と異なるのかー、という現代では極めて曖昧になっている問題に、何か有力なヒントになるのではないかーーというのはわたしの勝手な感想である。
 同人雑誌に掲載された作品でも、それが文学なのか、ただの作文なのかを見分けるのは大変難しい。ひとつにはそれが短編であるためで、ある程度の長さをもってすればその本質が見えるような気もするのである。
 関連したコラムで、【プライティア・小川国夫「速い馬の流れ」雑考】があるが、小川国夫がどこをどのように推敲し、省略してしまうかが、丁寧に検証されており、いわゆる小説的な散文が、詩的散文に転化するぎりぎりのところに置かれていることがわかるので、興味深かった。本誌全体の構成作風に真摯に丹念に書く姿勢が、文芸の価値を形成しているのは確かである。
発行所=静岡市葵区北安東1-9-12、勝呂方。

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