「第23回コスモス忌」で、佐々木幹郎氏の話を聴く
19日の「第23回コスモス忌」で佐々木幹郎氏の秋山清の話を聴きに東京・築地本願寺に行った。秋山清が1982年の「寺子屋」現代詩講座で対談を行った際の録音を聴いたりして、面白かった。《参照:詩人回廊》
本来、詩はアナーキーなものであり、ごく個人的な世界から生まれるもの。自分なども書かない詩人を標榜している。インスピーレーションは個性的すぎて普遍性が薄い。そこを普遍的な表現を工夫して橋渡しをするのが、散文詩である。いまの多くの詩が散文である。小説芸術も散文の延長とし考えないと芸術性の議論にのらない。そこで「詩人回廊」のタイトルも、三島由紀夫の言葉を借りた。自分の文章でもいいのだが、やはり手垢のついた名詞のほうが普遍性をもつ。
自分が同人誌に小説を発表したとき、手垢のついた文章ばかり、という批判があった。おそらくその人は、誰も使ったことのない言葉で小説を書いているのであろう。同人誌だからいいが、そんなの誰にも読まれない。
一般人に読んでもらうには、いかに手垢のついた言葉で、読ませるかの工夫がいる。
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