詩の紹介 「故郷の空は悲しみ色濃く」 井之川巨
故郷の空は悲しみ色濃く 井之川巨
僕の故郷では大きな樹に/果実ではなく人がぶら下がっている/貧しい年老いた農民が/首に紐をかけぶら下がっている
それはとても悲しい風景だった/僕の父の代、祖父の代/もっと以前から続いている/日本の農村によくある悲しい風景
女は照りつける太陽の下で/農道に佇んで泣いていた背籠の西瓜を畑から盗んだと/村人に疑われ責められて
病人がいる一軒の家/暗闇の奥から弱いしわぶきが聞こえてくる/子供たちはその家の前を通るとき/口を押さえ息をしないで駆け抜ける
あの病気は伝染病だから気ぃつけれやと/親から教師から子供たちは/いつも聞かされている、だから/その家の子供たちと誰も遊ぼうとしない
来る日も来る日も雪が降る/雪の重みで一軒の家がつぶれた/雪の下でもう一軒が焼けた/出稼ぎあとの子供だけの家、年寄りだけの家
貧しい家の少女は商店の前を通るとき/いつも祈るように親に頼んだ/「おらにもいつか買ってくれろな」/しかし少女の「いつか」は訪れてこない
ひとりの貧しい少女が/自分よりもっと貧しい少女に/そっと手渡した真新しい靴下/自分のはく靴下はつぎはぎだらけだったが
故郷を出てから何十年たったことだろう/寒さとひもじさと差別への怒りと涙の記憶だけ/わが故郷よ、お前のおかげで僕は/どんな逆風にもたじろがぬ心を育てたよ
(03年 4 月30日 「井之川 巨詩集」土曜美術社出版販売)
紹介者 江素瑛(詩人回廊)
井之川 巨は故人。記憶の中に消えない終戦後の日本農村の現実を書く。次から次へ悲しくも、貧しい故郷の惨めさ。人情の冷たさもあれば暖かさもある。医学知識の不足による誤解。結核患者の家の娘は嫁にいけなかった。そのなかで村八分の習慣のなかでの助け合いは、人間的な自由を制限する。小さな農村であるが故の自死。いい思い出のない故郷にも懐かしく感謝の意を現れるー「わが故郷よ、お前のおかげで僕は/どんな逆風にもたじろがぬ心を育てたよ」こういう環境に育てられた作者は強い詩人になった。
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