「文学フリマ」と、この会の最近の活動など (2)
「文学フリマ」の常連参加者の野田吉一さんは80歳になるはずで、今年も参加するとしたら最高齢の部類に入るであろう。フリマで簡素ではあるが、冊子本にした短編連作「幻魚水想記」シリーズを「世界一高い5円」という価格で販売、フリマの“名産品”として多くの読者を獲得した。作品は「文体に格調がある」と、好評である。
昨年までは、品川駅ビルの休憩スペースで顔を合わせることがあった。人工透析をした帰りがけに、そこに寄ってひと休みするのであった。しかし、今年は、店舗改装でそのスペースがなくなり、会うことがなくなった。以前は文芸研究月報に会員として、寄稿してくれていた。
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【 俳句 「私の四季」 野田吉一 】
近現代になると、死も即物的になる。言わば近代合理主義、科学主義の色合いを帯びてくる。その影がさす――もっとも、日本の中世にも「厭離穢土・欣求浄土」という来世観から、観想というのがあったそうだ。
「キュルトネーブルという小さな蝿が、死の間際に人体に付き纏う。(略)その事件=死は彼等の幼虫に対する食料の洪水をもたらそうとしている素晴らしい事件なのだ」
「メニヤンの説によると、一匹の青蝿の幼虫どもは(人間の死体の中で)、毎日目方が二百倍殖えてゆく」
さまざまな虫、細菌が人間の死体を喰い尽くした末、「(最後に)この甲蟲が去った後では、もはや何も残らない。ただ、この甲蟲の清掃の後にもなほ、幾らか白骨に付着している滓のまた滓の窩奥にこびりついている小さな塊が残っているのは仕方がないが。」(「地獄」アンリ・バルビュス 小牧近江訳)
管の血を廻らす(人工透析)冬の陽の歩み
木枯らしの音して耳のなる夜かな
額ずけば朽ち葉の下の虫無限
「文芸研究月報」2006年1月号(通巻61号)より。
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