詩の紹介 「無意味をかじる」山崎夏代
<無意味をかじる 山崎夏代>
生きる意味が少しわかった気がします/詩集の後書きにあった言葉だ/それを 書評に引用したのは わたしの軽はずみ/友人は早速 食いついて はがきをくれた/ 生きる意味がわかるなんて しあわせだね//
わたしにだって 思ってはいる/ひとは 意味によって生まれたのではなく/意味を求めて 生きているわけではなく/意味を知って 今日をやすらぐわけではない/ましてや 意味につつまれて死ぬのでもない//
けれど 生きる意味を問う/その問いの 愚かしさ 無意味さ/にもかかわらず なおも問い/得られるわけのない解を求めて煩悶する生き物は/おそらく 人間だけだろう//
≪ 省略≫
タンポポは 春を笑い/蝉は 夏に歌い/木の実は 秋を華やぎ/雪虫は 冬の到来を躍る/意味とともには かれらはいない//
無意味を/わたしは かりかりと かじって生きる/ひたすら かじる/フランシス・ジャム先生のロバがかじった綱のように//
明日も あさっても/心臓が鼓動し 空気が鼻から出入りすることをたよりに/無意味をかじり続けるだろう//
肩を竦めてわっているのは だれ?
(紹介者「詩人回廊」江素瑛)
人間は生きる意味考える。作者は「無意味」をかりかりとかじって生きる。それは自然の法則に順従する姿勢でもある。生きる意味の有無を悩む時、悩まないとき、その時に生きる意味があるのかもしれない。恆久の宇宙の僅かな時間を占めるわれわれ、広大な宇宙空間の微粒子であるわれわれ、あらゆる生き物と同様にこうして死ぬまで生き続けるのではないか。
どこかで、万物を作られた神が頷いているのか 笑っているのか気になるところである。
「流」33号より 2010年 9月 川崎市宮前区 宮前詩の会
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