小泉今日子(女優)書評=中島京子『小さいおうち』(文芸春秋)
思い出の中の秘密
バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」という絵本を子供の頃に読んだ記憶がある。かわいい絵本と同じ表題に私は油断していたようだ。この本を読み終えて、しばらく呆然(ぼうぜん)としてしまった。主人公の人生が生き生きと描かれていて、だから私はこの物語の結末を受け止められず混乱している。実在した人の大事な秘密を覗(のぞ)いてしまったみたいで心が重い。
昭和の初めの頃、東北の田舎から上京した少女、タキは中産階級家庭の女中になる。戦争戦争と激動の時代だったはずだ。でも、タキにとっては、優しい旦那(だんな)様と、若くて奇麗な奥様と、小さくて可愛い坊ちゃんと一緒に暮らした、坂の上の赤い屋根の家で起きた毎日の小さな出来事の方が戦争よりも事件だった。戦争を知らない私は緊迫した状況を想像するけれど、若い女中さんにとって戦争は、あれこれ忙しい日常に溶け込んでしまうものだったのかもしれない。
少女の頃は何もかもが初体験で、その思い出はキラキラといつまでも心の中に残るものだ。生涯独身で過ごし、今や米寿を越えたタキは一人暮らしのマンションでそんな思い出を少しずつノートに綴(つづ)る。特に、妹のように可愛がってくれた8歳年上の奥様との思い出が目立つのは、タキが奥様に憧(あこが)れていたからなのだと思う。
ある日、板倉さんという旦那様の同僚が赤い屋根の家を訪れる。そこから物語に不穏な影が現れる。そしてタキのノートは中途半端なところでプッツリと途切れてしまう。タキの寿命が尽きたのだ。最終章ではノートの唯一の読者、甥(おい)の息子の健史が物語を引き継ぐ。タキが抱いていた後悔や秘めた想いが明らかにされてゆくのを、私は息を呑(の)んで見守った。
長く生きているとキラキラした思い出を自ら汚してしまう時がある。塗り替えようとしてもその黒いシミは決して消えない。タキもそうだったのだろうか。私は少し途方に暮れながら静かにこの本を閉じた。
◇なかじま・きょうこ=1964年、東京生まれ。2003年、『FUTON』でデビュー。本作で直木賞。
評・小泉今日子(女優)(2010年8月16日 読売新聞)
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