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2010年8月10日 (火)

同人誌「石榴」11号(広島市)

【「樹木の話」木戸博子】
 中国大連市の南山麓にある母親の生家を訪ねた話。主人公の母親は3年前に68歳で急死し、その喪失感を埋めようとするように、丹念に母親の労苦の痕跡をさがそうとする。歴史的な事実が物静かな魂の情念のなかで、表現されている。
 作者は中国新聞に「緑地帯」というコラムを連載するなど、地域で活発な活動を展開しているようだ。
【「薔薇よりも真実なもの」高雄祥平】
 出だしはこうである。
「私がこれから物語る一連の出来事のあと、何年どころではない二十年近くも経ったあるとき、私はテネシー・ウイリアムズに「バラのいれずみ」という作品があることを知った」
 こうして「私」の人生体験をテネシー・ウイリアムズの「バラのいれずみ」の舞台劇と照合して評論をしながら、語りを進める。大変に技巧的な作品で、もしこれで小説としての完成がなされていれば、画期的な手法を開発したということになるかもしれない。なにが出てくるか、と興味を持たせてそれはそれで面白く読んだ。小説の技法を凝らしてみたい、という人には参考になりそう。
 技法としての面白さで目を見張らせるが、それは、対象にむけた斜めの構えの面白さであって、小説としては不満に感じる。テネシー・ウイリアムズにしても、その他の哲学者らしき人名だけの表現では、自分には理解できず、個人的な想念を読んだとういう感想を出ない。小説の根っこにあるのは、「この人を見よ」であり、描写であろう。舞台劇は心理の描写に比重があるだけで、原理は同じなのではないだろうか。現代において「真実」って誰にとってよ。という課題があるなかで、真実がどこかに固定的に存在するというイメージが実に19世紀的で、戸惑いを憶えた。とはいうものの、なんとなく平凡な自己表現から脱しようという意欲が感じられ、もしかしたら一捻りすれば、この手法もあるのかな?と思わせるところがある。
 発行所=〒739-1742広島市安佐北区亀埼2-16-7、木戸方「石榴編集室」。

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