同人誌「胡壺・KOKO」第9号(福岡市)
全体に雑誌としてバラエティに富んで楽しめる。
【「渓と釣りを巡る短編・峠越え・夫婦ヤマセミ」桑村勝士】
これは、主人公が渓流と山であると読んだ。「この風景を見よ」であるから、人間は小説的に描かれていない。しかし、作者がなぜこの風景を描くかという視点で見ると、自然に生命感を感じる作者の趣味的な精神が読める。
【「顔」井本元義】
70歳の老人が、衰えてなお人間として五感を追求する話。特に牡丹の華に、萌えとエロスを感じる。凝った表現が成功している。メッセージは、この「美意識を知れ」である。表現はそれだけで良いと思うのだが、心配性なのかどうか、補追がある。
【「小倉まで」ひわきゆりこ】と【「崖くずれ」納富泰子】については、7月の「文芸同人誌案内掲示板」に一部記したが、それは知己の同人誌意識のものであった。
作品紹介として述べると、「小倉まで」と「崖くずれ」には、現代社会に生きることの表現としての似た意識と表現法の違いが比較できるのが、読みどころであろう。
「小倉まで」には、孤独な生活を送る高齢者の叔母の精神的な荒廃と、社会的な異端者に出会うことで、50代の主人公が感じる不安。間もなくやってくるのであろう、自分の社会的な個人としての無力感、苛立ちが感じられる。主人公は、変調する社会を動かそうとするのか、または個人的な自己存在の心の処理として、何かを持ちうるのかの問題提起をしている。
ところが「崖くずれ」は、高齢者の妻の個人的な存在にスポットをあて、社会的な背景には特に触れない。しかし、このような設定は明らかに現在の日本社会を反映しているのだが。作者は、ひたすらにその現実を見つめる。まさに、小説の原理「この人を見よ」の世界である。そうしてその歪んだ現実を現実として見つめるなかにある美意識が働く。文芸的な手法に優れた手腕が見られるが、現代版ボードレールの「悪の華」のような系列で発想に新味はないところがある。もっとも芸術に新味が必需であるとは限らないが。ヘンリー・ミラーは、自分はこれまであったものばかりを書いてるだけだ、と言っている。
。(紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)
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コメント
丁寧に読んで戴き、ありがとうございます。前回に続き、「小説・書くひと=読むひと・ネット」に転載させてもらいました。心配性かもしれない井本さんにもお知らせします。
拙作については、「動かしたい」けれど「動かせない」私自身の無力さの反映です。「動かせない」自分を見つめていれば、いつかほんの少し「動かせる」かもしれない。微かな希望を抱いています。まだ「動かし方」も判らないのですが。
投稿: ひわき | 2010年7月31日 (土) 15時38分