(2010年07月16日 / 提供:毎日新聞)
オランダ・ハーグの仏大使館占拠事件(ハーグ事件、74年)で殺人未遂罪などに問われた元日本赤軍最高幹部、重信房子被告(64)の上告審で、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は15日付で被告側の上告を棄却する決定を出した。懲役20年とした1、2審判決が確定する。
弁護人によると、重信被告は昨年2月に大腸がんの摘出手術を受け、現在も治療を受けている。16日に東京拘置所で接見した際は、治療中であることを感じさせない様子で、決定に抗議して早期釈放を求め、「元気にメンバーや友人たちと再会し、アラブに残した宿題をしたい」と話していたという。
1、2審判決によると、重信被告は74年、日本赤軍メンバー3人と共謀し仏捜査当局に身柄を拘束された別のメンバーの釈放を求めて仏大使館を占拠、拳銃を発射し警察官2人に重傷を負わせた(殺人未遂、逮捕監禁罪)。
また同年、メンバーを他人名義で出国させるため、偽造申請書で旅券を取得。97~00年には自らが他人を装って旅券を取得し、関西国際空港から16回の出入国を繰り返した(有印私文書偽造・同行使、旅券不実記載罪、旅券法違反)。
71年に出国した重信被告を中心にレバノンで結成された日本赤軍は、マレーシアの米大使館を武装占拠したクアラルンプール事件(75年)、インド上空で日航機を乗っ取ったダッカ事件(77年)などを起こした。
ハーグ事件で国際手配された重信被告は00年、潜伏先の大阪府高槻市内で逮捕され、起訴後の01年に日本赤軍解散を表明した。裁判ではハーグ事件への関与を否定し無罪を主張したが、1、2審は実行犯との共謀関係を認定した。【伊藤一郎】
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今年の年賀状に、年内に判決が確定しそうです、ということが書いてあった。弁護士にそれは何時ごろ決まるのかと問い合わせたところ、これは裁判所が一方的に通達することなので、いつかはわからないという話であった。 重信氏は1965年に、東京・日本橋のカルピスに勤め、夜に明治大学に通っていた。最近、重信房子さんを支える会の「さわさわ」にその当時のことを記している。よく覚えているものだ。その後、駿台文芸とかで文学活動をしていたのが、当時の全共闘に巻き込まれたようだ。
自分は、1963年から67年までアルバイトで転々としながら法政大学の夜間に通った。当時はどの大学でもそうだろうが、校門付近では、民青同、中核派、革マル派などが、アジビラをもって、新入生を自派に勧誘していた。ちょっと運動に疑問をだせば「てめは、デモにいったのか」とデモ参加信仰を説く。同期の友人の多くが誘われて行った。「何のために学問をしにきたのだ、一緒に卒業しようよ」といっても、耳を貸さない。なぐられそうになる。教室に行くと、教授の来る前に黒板の前の教壇で、何々派が反体制の演説をする、「いいかげんにしろ、俺達の授業をじまするな」「いいじゃないか」とまず小競り合いが始まるといった調子の日々だった。
当時の騒動で、身体を損傷して一生を過ごすことになった人たちはどれほどいるであろか。表にでることがないが。それがいろいろあって、今のニヒリズム的なムードの世情になるとは思ってもみなかった。
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