【文芸時評】7月号(産経新聞) 早稲田大学教授・石原千秋 2人の村上春樹
【文芸時評】7月号 早稲田大学教授・石原千秋 2人の村上春樹 今月の小説は低調。文芸誌では村上春樹『1Q84』祭りがまだ続いているようで、そちらの対談、座談会、評論の方がはるかに面白かった。
小森陽一は一貫して村上春樹批判の立場のようだ。それはもちろんいい。しかし、村上春樹の訳者ジェイ・ルービンとの対談での、こういう発言はどうだろうか。「私が言いたいのは、村上春樹のこの小説のこの謎はこういうことだ、といい大人たちが議論する、そこに何か意味があると思ってしまうこと自体が、反小説的なことではないかということです」(群像)。それなら、文学研究は全否定されることになる。もちろん、それもいい。しかしそういう小森陽一自身が、同じ対談で夏目漱石の『三四郎』について得々と、しかもまったくの事実誤認をもとに語ってしまうのはどうしたことだろう。
小森陽一は『三四郎』は「一カ所だけ、展覧会で美禰子の視点になる」以外は、「基本的には登場人物である三四郎の視点から綴られている小説」だと言う。その「一カ所」とは「三四郎は自分(美禰子のこと-石原注)の方を見ていない」(新潮文庫)を指すのだろう。ところが、別に名古屋の汽車の女視点もあるし、『三四郎』には「この田舎出の青年には、凡て解らなかった」(同)といった、三四郎以外の全知視点から書かれた文が全体で13もある(これはかなり以前に、拙著『反転する漱石』で指摘したことだ)。繰り返すが、小森陽一はまったくの事実誤認をしているのだ。「いい大人」がこういう杜撰(ずさん)な議論をする方が問題ではないだろうか。
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コメント
大学教授の縄張り争いは醜い。石原の言うのはテキストとしての批評、小森の言うのは、印象批評として正解。小森の対談も面白味がないが、石原はこんなことを新聞に書いているようでダメ。
投稿: 田端 | 2010年7月 1日 (木) 04時52分