文芸時評<文学9月>(読売新聞9月29日・(文化部 山内則史)
『日本文学盛衰史』で明治の文学者たちを現代に生き返らせ、近代日本語の始まりから文学をとらえ直した高橋源一郎氏(58)が、今度は戦後派の作家を題材に新連載「日本文学盛衰史 戦後文学篇」(群像)を開始した。
大学の先生〈ぼく〉は〈(1)日本語が読める(2)平成生まれである〉という資格をクリアした学生3人と特別研究プロジェクト「戦後文学を読む」を始める。まず見るのが〈イノウエミツハル〉の映像。全身全霊を文学に捧げた男を見てぼくは思う。〈ここでの「文学」や「小説」は、それがなければ、人間が生きてゆくことができない(中略)宗教に近いものなのかもしれない。そして、その国では、すべての国民が信仰を持つことを期待されていたのである。では、いまは?〉いまはそうした信仰から自由な世代が、文芸誌の中心にいる。
今年6月に三島賞を受けた前田司郎氏(32)の新作「逆に14歳」(新潮)は、ばかばかしく、少しかなしい老人小説だ。ぼけていないが記憶が怪しい、書けなくなった作家〈俺〉は、古い友人の葬式で、俳優だった友人〈白田〉と再会し、2人で暮らすようになる。気持ちの若さと老いた表面とのずれは埋めがたく、老人の着ぐるみを着た若者があがいているかのよう。例えば加藤茶と志村けん演じる老人コントを想起させるが、若い頃行った熱海でのある冒険を通して、生きることと老いることの含む滑稽さが、表裏一体のいとおしさへと裏返る。
中島たい子氏(40)「結婚小説」(すばる)の主人公は、結婚を題材に小説を書こうとしている39歳の女性作家。専業主婦に収まった友人を見ても、結婚に夢を抱けない彼女だが、取材のためバツイチ限定の〈蕎麦打ち合コン〉に未婚の履歴を偽って参加し、ドキュメンタリーを撮る映像作家と運命的に出会う。結婚という制度と、本音の自分、相手を愛する実感に、どう折り合いをつけるか――。独身男女が、その瀬戸際で踏み切れずにいる心理が軽快に活写される。ミイラ取りがミイラになる喜劇と、結末のどんでん返しも鮮やかだ。
「パワー系181」で2年前にデビューして以来、世界を数値化することに異常な執着を燃やす人間を繰り返し描いてきた墨谷渉氏(36)が新作で着眼したのは究極の数字、お金。「その男、プライスレスにつき」(同)は、クライアントと行ったクラブで知り合った女に貢ぐ、結婚を目前にした弁護士の錯乱を描く。看護学校に通うからと金を無心するその女が別の若い男とつきあっていることに薄々感づきながら、弁護士は女に振り込んだ明細書をながめては〈恍惚と戦慄〉に身を震わせる。際限なくエスカレートする蕩尽、マゾヒスティックな破滅への願望は、マネーゲームに狂奔する現代を嗤っている。
登場人物が旅に身を置く2作品も、余韻深かった。ひとつは平田俊子氏(54)「スロープ」(群像)。東京・中野の鍋屋横丁のマンションに引っ越した〈わたし〉の身辺の出来事と、わたしが少女時代を過ごした隠岐から出征し、ソロモン諸島で戦死した伯父の慰霊ツアーが、ループのように円環をなし、緩やかに結びあわされている。近所の十貫坂に始まり、坂から喚起される禍々しいイメージと、自分を捨てた男への怨念がない交ぜになって、ありきたりの現実が微妙に歪む感覚があった。もう1作、横尾忠則氏(73)「スリナガルの蛇」(文学界)は、彫刻家とカメラマンの若者2人によるインドへの旅。ハウスボートに滞在する彫刻家の元に神秘的な女性が現れ、夜な夜な創造のエネルギーを向上させる儀式を施す。ここにも日常を逸脱した、えたいの知れない時がたゆたっていた。
(09年9月29日 読売新聞)
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