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2009年8月15日 (土)

デジタルガーデン「詩人回廊」巡回記(4)

 中原中也「散歩生活」では、町のカフェで、男が親戚に「シャッキリした生活をしなさい」と注意をされている。
 社会で、若い者が自由な生活を楽しんでいると、まわりの者が気にかけて世話をやいている仕組みがあった。「散歩生活」を望む者にとって、自由を束縛するのは、かれら世間の誰かであった。そいう意味で、世間の世話焼きの視線は敵対的に感じたのである。
 現代のニートはどうだろう。ニートは自由な生活を楽しんでいるのであろうか。ニートを心配して世話をする人はいるのだろうか。世間という社会は、彼に無関心で黙殺する。まるで存在しないかのように無視する。社会は、彼の存在に無関心で、仲間入りを拒む存在として、敵対的に感じるのである。
 「散歩生活」というものなど、今も昔も社会は認めない。しかし、中原中也はそれに反抗して「詩人」としての自分を生きるしかなかった。自身そのままの理解者を求め続けたのではなかろうか。
 それに対して、現在のニートは「何々として生きる」というものがないのであろうか。もともと、サルトルは、人間の存在は、道具のように目的があって存在しているものではない、としている。人間を目的化する宗教・神は、居ようが居まいが、かまわない。無関心となる。
 昔は桎梏として受け止められていたものが、今は人間関係の希薄が問題だという。
参照:「居場所なき若者たち」支援の現場から(6)「なぜ、立ちすくむのか?」その内なる事情
 「詩人回廊2009」は、こんなことも考える手がかりになればいいな、と思った。Sijinkairo
 フィッツジェラルドが「偉大なるギャツビー」で、「我々は川の流れに流されながら、それに逆らって漕ぎ続けるであろう、明日こそは、明日こそはと…」書いたように、この時代をかえるなかで生き残るものが、社会を作る。しかし「散歩生活」を希む人間はなくならないであろう。

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