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2009年8月26日 (水)

デジタルガーデン「詩人回廊」巡回記

第八回文学フリマで 《「詩人回廊」サイト》をセレクションした冊子を「詩人回廊2009」を発売した。会場では、他の出版物もあり2、3冊しか売れなかったが、その後会員協力販売で、55冊ほど売れている。その収益で今月23日に四日市で行われた作家・詩人の伊藤桂一氏の文学碑の除幕式に参列する交通費用にあてるつもりでいた。
 ところが、急に体調を崩し、喉が腫れ、歯茎が腫れ、胃腸を壊すという事態になった。検診のスケジュールがつまって、出席を断念した。師である伊藤桂一氏には、「詩人回廊2009」を読んでもらっており、文学フリマでの販売方法にもかなり興味もっているようで、「文学フリマ」の状況をきかれることもあった。
 それはともかく、この「詩人回廊2009」では、夢野久作の「猟奇歌」を採用した。現代は、社会の規律や法の世界で、人間は善をなすべきであり、悪意を否定する。時と場合によっては、悪意を表現するだけで、法的制裁を受ける。現在、有名詩人がこうした心情を露骨に表現して公表することはない。
 そういう意味で、現代というものの表現の制限というものを考えるヒントになる。こうした悪意の表現は、敬虔なクリスチャンであった詩人、八木重吉の詩集「秋の瞳」に「人を ころさば」という作品があり、死後に発表されたら「貧しき信徒」という詩集には、

病床無題
人を殺すような詩はないか

という一行詩がある。この時代、こうした悪意を素直に表現した詩人は、少なくないようだ。
 現代は、誰でもよかった、死刑になりたい、とかで無差別殺人が時代の病理として報道されている。こうした目的なき殺意は、すでに、中里介山の小説「大菩薩峠」の机龍之介の行為として表現されている。こうした殺意の発露は人間が本来保持しているものであろう。それが病理でありなら、善意も病理である。この原理から目を離さなかったのがドストエフスキーなのではなかろうか。

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