高村薫さん「太陽を曳く馬」 殺人とは 仏教で問う
言葉の蓄積 殺生戒に重み
「戦争、殺人、巨大地震……。理不尽な死を経験してきた私たちは、仏教を再発見していくべきです」と語る高村薫さん=追野浩一郎撮影 高村薫さん(56)の長編小説『太陽を曳(ひ)く馬』(新潮社)は、動機の見えない殺人に、青年僧の轢死(れきし)という、一見関連のない事件を重ね合わせた。そこには人を殺すとはどういうことかという根源的な問いかけがある。(浪川知子)
「時代を描く」ことを目指し、曹洞宗の僧侶、福澤彰之を登場人物の中心に据えた3部作の完結編。『晴子情歌』で戦前から戦後復興期を、『新リア王』で経済発展の頂点をとらえた作家が、新作の背景にしたのは、「20世紀の常識が通用しなくなった9・11テロ後」の時代だった。
幼い頃から他者と交わらず、ただ絵を描くことだけに熱中してきた青年が、同居していた妊娠中の女性と、隣家の大学生を惨殺する。「うるさい音を消したかった」。それが彼の述べた唯一の理由だった。
高村さんは「どんな“動機なき殺人”も何らかの理由はある」という。
「究極の動機は、自らの存在確認としての殺人です。身体を動かすことで世界の手触りを得られ、死にゆく相手との比較で自分が生きていると実感できる。無差別殺人犯の『だれでもよかった』という言葉は、それを表しています」
一方、元オウム真理教信者でてんかんを患う青年僧が、車にはねられて死亡した。僧の両親は彼を預かる寺の責任を問い、告訴状を提出する。
両事件の捜査をするのは、多くの高村作品で主人公だった警視庁刑事、合田雄一郎。合田は、福澤彰之が、殺人を犯した青年の父であり、青年僧を寺へ迎えた当事者だと知る。事件について苦悩し、「なぜ」と考え抜く彰之。合田は彼の思考の跡を追いつつ、寺の他の僧侶たちを相手に、仏を信じるとは何か、仏教とオウム真理教の違いはあるのか、と議論を深めていく。
見えにくい現実を言葉でとらえ、思索する人間として、高村さんが設定したのが仏教者の彰之だ。なぜ仏教なのか。
「他の宗教が善悪をはっきりと分けてしまうのに比べ、仏教はそれをしないからです。〈悪〉を切り捨てたり、断罪したりしないのは重要なこと。9・11テロやその後のアフガニスタン、イラクでの戦闘を経た現代人は、正義と悪を単純に線引きできない世界にいることを知っているはずです」
この数年、道元の「正法眼蔵」などの仏教書を丹念に読み込んだ。2500年の歴史を持つ仏教は、ものを考えるための道筋や言葉を十分に蓄えていると感じた。「言葉は人間に道を誤らせないための安全保障。突然現れた超能力者には、そんな言葉の蓄積がない」と、オウム真理教と伝統仏教の違いを指摘する。
問いを発し続けた彰之は、最終的に「息子は殺したいから殺した」という理解に達する。
「人間には殺さない意志も、殺す意志もある。すべてをひっくるめたのが人間の存在だというのが彰之の得た認識であり、仏教者の理解です。それを知っているだけで、殺人を犯す人を見る目に違いが出る。その上で『殺すなかれ』という仏教の殺生戒が意味を持つのです」
執筆に際し座禅を組んだり、元オウム真理教信者に取材をしたりはしなかった。「小説は経験したかどうかとは別。どれだけ言葉の拡張子を持っているかで決まる」との考えからだ。
殺人への問題意識は、来年から週刊誌で始まる連載にも引き継がれる。
「トルーマン・カポーティの『冷血』の現代版を書きたい。宗教の名の下に大勢の人が殺され、わずかなお金のために命が奪われて、今は人の命が軽くなっている。そんな地べたの現実を見つめていきます」(09年8月4日 読売新聞)
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