小泉今日子・書評『昭和二十年夏、僕は兵士だった』梯久美子
忘れないという怒り
私は昭和41年にこの世に生まれた。今にして思えば戦争が終わってたった21年しか経(た)っていなかった。両親とも子供時代に戦争体験をしており、食べ物がなくて栄養失調になったとか、長野に疎開していたとか、そんな話を聞かされて育った。それでも私が見てきた昭和はとても豊かだった。その豊かさを当たり前と感じ、さして感謝も出来ないまま生きてきてしまった。
金子兜太(とうた)(俳人)、大塚初重(考古学者)、三国連太郎(俳優)、水木しげる(漫画家)、池田武邦(建築家)。戦後それぞれの分野で活躍を続けてきた5人の戦争体験を著者は丁寧に聞き出してゆく。当時二十歳前後だった彼らが戦争で何を見たのか、その後の人生をどう過ごしてきたのか、その告白をたった一人で受け止める心構えはきっと私にはまだない。
死が日常にあった。補給を断たれ、武器も食料もないトラック島で飢え死にする。毎日のように穴を掘って遺体を埋める。捕った魚を一匹でも多く持ち帰るために口にもくわえたが、結局のどにつまらせ死ぬ。川ではワニに襲われる。兵士と言っても青春真っ盛りの若者なのだ。死に際に「おかあさん」と呟(つぶや)くほどまだまだ未熟な若者だったのだ。私が彼らの年齢だった頃、日本はバブルの真っ只中(ただなか)で、浮かれた若者たちが夜な夜な六本木のディスコで踊っていた。
仲間たちの死を心に抱えてこの人たちは長い時間を生きてきた。大正時代に生まれ、昭和を丸ごと体験し、平成もすでに21年。けれど彼らの回想は鮮明で、昨日のことのように詳細に語る。金子氏は戦後の自分の人生を「残生」と呼ぶ。死ななかった自分の人生を残りの命だと感じ、前向きに生きることが死者に報いることだと話す。戦争を体験した人の多くが、仲間の死を無駄にしないように、時が流れても忘れ去られてしまわないように、戦争で見た全(すべ)てを自分の一部として生きてきたのだろう。忘れないということが、静かな怒りのように私には思えた。
◇かけはし・くみこ=1961年、熊本県生まれ。2006年、『散るぞ悲しき』で大宅壮一ノンフィクション賞。『昭和二十年夏、僕は兵士だった』角川書店 1700円(09年8月24日 読売新聞)
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