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2009年8月31日 (月)

「文芸時評」9月号(産経新聞)石原千秋・早稲田大学教授

《対象作品》磯崎憲一郎『終の住処』(新潮社)/鹿島田真希「第三の愛」(群像)。(09.8.30 産経ニュース)

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2009年8月30日 (日)

小泉今日子・書評『昭和二十年夏、僕は兵士だった』梯久美子

忘れないという怒り
 私は昭和41年にこの世に生まれた。今にして思えば戦争が終わってたった21年しか経(た)っていなかった。両親とも子供時代に戦争体験をしており、食べ物がなくて栄養失調になったとか、長野に疎開していたとか、そんな話を聞かされて育った。それでも私が見てきた昭和はとても豊かだった。その豊かさを当たり前と感じ、さして感謝も出来ないまま生きてきてしまった。
 金子兜太(とうた)(俳人)、大塚初重(考古学者)、三国連太郎(俳優)、水木しげる(漫画家)、池田武邦(建築家)。戦後それぞれの分野で活躍を続けてきた5人の戦争体験を著者は丁寧に聞き出してゆく。当時二十歳前後だった彼らが戦争で何を見たのか、その後の人生をどう過ごしてきたのか、その告白をたった一人で受け止める心構えはきっと私にはまだない。
 死が日常にあった。補給を断たれ、武器も食料もないトラック島で飢え死にする。毎日のように穴を掘って遺体を埋める。捕った魚を一匹でも多く持ち帰るために口にもくわえたが、結局のどにつまらせ死ぬ。川ではワニに襲われる。兵士と言っても青春真っ盛りの若者なのだ。死に際に「おかあさん」と呟(つぶや)くほどまだまだ未熟な若者だったのだ。私が彼らの年齢だった頃、日本はバブルの真っ只中(ただなか)で、浮かれた若者たちが夜な夜な六本木のディスコで踊っていた。
 仲間たちの死を心に抱えてこの人たちは長い時間を生きてきた。大正時代に生まれ、昭和を丸ごと体験し、平成もすでに21年。けれど彼らの回想は鮮明で、昨日のことのように詳細に語る。金子氏は戦後の自分の人生を「残生」と呼ぶ。死ななかった自分の人生を残りの命だと感じ、前向きに生きることが死者に報いることだと話す。戦争を体験した人の多くが、仲間の死を無駄にしないように、時が流れても忘れ去られてしまわないように、戦争で見た全(すべ)てを自分の一部として生きてきたのだろう。忘れないということが、静かな怒りのように私には思えた。
 ◇かけはし・くみこ=1961年、熊本県生まれ。2006年、『散るぞ悲しき』で大宅壮一ノンフィクション賞。『昭和二十年夏、僕は兵士だった』角川書店 1700円(09年8月24日 読売新聞)

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2009年8月27日 (木)

第8回新潮ドキュメント賞に蓮池薫さん「半島へ、ふたたび」(新潮社) 小林秀雄賞は水村美苗さん

 第8回新潮ドキュメント賞(新潮文芸振興会主催)の選考会が27日、東京・虎ノ門のホテルオークラで開かれ、日本人拉致被害者、蓮池薫さん(51)の「半島へ、ふたたび」(新潮社)が受賞した。また、第8回小林秀雄賞は、水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」(筑摩書房)に決まった。賞金はともに100万円。
 「半島へ、ふたたび」は、初めてのソウル旅行を通じて、蓮池さんが24年間にわたって拉致生活を送った北朝鮮への思いや、帰国後に翻訳を通じて失ったものを取り戻していく過程を初めてつづった手記。
 会見で蓮池さんは「受賞なんて夢の夢と思っていたので、本当にびっくりしている」と笑みを浮かべた。さらに、「今後、北での生活を(もっと)書きたい気持ちはある。次に(北朝鮮から)帰ってくる人々に『夢を与えてほしい』と訴えていきたい」と述べた。
 選考委員の柳田邦男さんは「蓮池さんのものを見る目の鮮烈さ、表現力が高く評価された。韓国への旅を、拉致被害者としての北朝鮮体験、消しがたいトラウマと重ね合わせ、朝鮮半島の実像をリアリティーを持って描き出している」と評した。(09.8.27産経ニュース)

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文芸時評<文学8月>魂と生者のつながり(読売新聞)

小林恭二氏(51)の連載「麻布怪談」(文学界7月号~)が完結した。「四谷怪談」の向こうをはったか、歌舞伎的な骨格を備えた、エンターテインメント性あふれる快作である。
 大坂の儒学者の家に生まれた不惑目前の男が、家の学問に飽きたらず、江戸に出て親に内緒で国学を志す。産褥(さんじょく)で妻子を亡くし今は寡(やもお)のこの男が麻布に引っ越すと、二人の美女が代わる代わる、夜に訪ねて来る。その正体は狐(きつね)と幽霊。そこで一騒動起き、男の先祖に恩義がある狐と、男と浅からぬ因縁がある幽霊それぞれの来歴が語られる。
 『本朝聊斎志異(りょうさいしい)』で伝奇ものを連作し、黙阿弥や近松をふまえて『宇田川心中』を書いている作家にとって、人情と洒脱(しゃだつ)の物語は自家薬籠(じかやくろう)中のもの。思いを残して死んだ人間が無念を晴らすドラマに、愛する者と別離する悲しみをにじませつつ、剽(ひょう)げた語り口で飽きさせない。
 湯本香樹実(かずみ)氏(49)「岸辺の旅」(文学界)も、生者と死者のつながりを題材にした作品だ。失踪(しっそう)していた夫が、3年ぶりに〈私〉のもとに帰ってくる。海の底で体を蟹(かに)に食われてしまったと語る夫と共に私は、夫の戻って来た道を遡(さかのぼ)る旅に出る。中華料理店、タバコ農家など、転がり込んだ家で夫は仕事を手伝い、失踪の時間を過ごしてきたことを知る。そこにはいつも、水の流れる音がする。
 訪ね歩く先々の妙に生々しい生活感の振幅がユーモラス。彼岸と此岸(しがん)のあわいで揺れる夫は、本当のことを話していないのでは、という謎を帯びる。〈私〉の喪失感は変わらないけれど、旅の途中で夫と交わす就寝前の会話で、一緒に暮らしていたころ気づかなかった様々が明かされる場面など、ほほ笑ましい。「死者は断絶している、生者が断絶しているように。死者は繋(つな)がっている、生者と」という夫の言葉が、この作品の世界観だろう。それは氏が昨年、絵本『くまとやまねこ』で描いた、なかよしだったことりの死の悲しみから回復するくまの心境にも重なる。
 今月は、作家の年輪を感じさせる短編を読んだ。南木佳士氏(57)「白い花の木の下」(同)は、激務で心身のバランスを崩し、息をひそめるように回復し、生き延びてきた信州の医師の語る私小説的作品。診察したおばあさんに聞いた山菜の採れる秘密の場所を探すうち、若い頃検視した首つり死体の下がっていたとおぼしき木に出くわす。人の死と自分の死をともども見つめてきた長い時間が、瞬時に巻き戻される浮遊感があった。
 又吉栄喜氏(62)「凧(たこ)の御言」(すばる)は、揚がる凧の高さに神の声を聴き、結婚相手を決めるという風習を兄弟が試した結果、兄と結婚することになった女性〈私〉の独白体小説。その後、戦争が女性の運命を変える。のどかな凧揚げと、何もかも破壊する戦争の残酷さが柔らかな語りの中で自然に溶けあっていた。
 若手では舞城王太郎氏(36)「ビッチマグネット」(新潮)。素っ頓狂でやや幼稚な冗舌口語体で、4人家族の変遷を物語る。〈人間のゼロは骨なのだ(中略)そこに肉と物語をまとっていく〉といった言葉は鋭く、他人と理解し合う困難さに捨て鉢になりながらも希望を捨てないこの作品の持つ前向きさに、好感を持った。
小野正嗣氏(38)「みのる、一日(いちじつ)」(同)は、過疎の町で役場支所に勤める臨時職員みのるの日常を描く。幼時、体中デキモノに覆われ膿汁(のうじゅう)にまみれた彼は、この地に眠る記憶と腐臭の中にずぶずぶ沈んでいくかのよう。それに抗して、外国人の来客に備えて覚えた英語で「メモリー、ライズ」などと独りごちる。〈いまだ言葉ならざるものをどろどろの状態にしておくために英語が必要だった〉。言語と世界のありかたに対する考察に裏打ちされた佳作と感じた。(文化部 山内則史)(09年8月25日 読売新聞)

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2009年8月26日 (水)

第46回文藝賞は大森兄弟著「犬はいつも足元に」、藤代泉著「Re:」の2作

河出書房新社は第46回文藝賞の受賞作を大森兄弟著「犬はいつも足元に」、藤代泉著「Re:」の2作品に決めた。受賞作や選評は10月7日発売の「文藝」冬号に掲載する。大森兄弟は、愛知県生まれの看護師の兄(34)と会社員の弟(32)のペンネームで、受賞作は、原稿に手を入れ合う完全な共同作業による作品。共作が受賞するのは1962年に同賞が始まって以来初めて。兄弟の本名、現住所は非公開。兄は成城大法学部卒、弟は国士舘大法学部卒。

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デジタルガーデン「詩人回廊」巡回記

第八回文学フリマで 《「詩人回廊」サイト》をセレクションした冊子を「詩人回廊2009」を発売した。会場では、他の出版物もあり2、3冊しか売れなかったが、その後会員協力販売で、55冊ほど売れている。その収益で今月23日に四日市で行われた作家・詩人の伊藤桂一氏の文学碑の除幕式に参列する交通費用にあてるつもりでいた。
 ところが、急に体調を崩し、喉が腫れ、歯茎が腫れ、胃腸を壊すという事態になった。検診のスケジュールがつまって、出席を断念した。師である伊藤桂一氏には、「詩人回廊2009」を読んでもらっており、文学フリマでの販売方法にもかなり興味もっているようで、「文学フリマ」の状況をきかれることもあった。
 それはともかく、この「詩人回廊2009」では、夢野久作の「猟奇歌」を採用した。現代は、社会の規律や法の世界で、人間は善をなすべきであり、悪意を否定する。時と場合によっては、悪意を表現するだけで、法的制裁を受ける。現在、有名詩人がこうした心情を露骨に表現して公表することはない。
 そういう意味で、現代というものの表現の制限というものを考えるヒントになる。こうした悪意の表現は、敬虔なクリスチャンであった詩人、八木重吉の詩集「秋の瞳」に「人を ころさば」という作品があり、死後に発表されたら「貧しき信徒」という詩集には、

病床無題
人を殺すような詩はないか

という一行詩がある。この時代、こうした悪意を素直に表現した詩人は、少なくないようだ。
 現代は、誰でもよかった、死刑になりたい、とかで無差別殺人が時代の病理として報道されている。こうした目的なき殺意は、すでに、中里介山の小説「大菩薩峠」の机龍之介の行為として表現されている。こうした殺意の発露は人間が本来保持しているものであろう。それが病理でありなら、善意も病理である。この原理から目を離さなかったのがドストエフスキーなのではなかろうか。

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2009年8月24日 (月)

「門」と「道草」に新解釈、 熊倉千之さんが、『漱石の変身』(筑摩書房)で提示

 罪の意識に満ちた小説と思われてきた夏目漱石の『門』と『道草』は、実は主人公の変身を示唆した前向きな物語だとする新たな解釈を、日本文学研究者の熊倉千之(ちゆき)さん(73)が、『漱石の変身』(筑摩書房)で提示した。
 『門』は友の恋人を奪って結婚した宗助の物語。友の出現におびえ、禅寺に救いを求めた宗助が心の平安を得られず終わる話と考えられてきた。
 熊倉さんは、『門』の作中、英語で書かれた「History of Gambling(博奕(ばくえき)史)」と、ふりがなをつけた「冒険者(アドヴェンチュアラー)」という言葉に注目する。悩み多い生き方をしてきた宗助が、人生を「賭け」て「冒険」に乗り出す「門」出の直前までを描いたとの解釈を示した。後の『道草』は、大学で教える主人公がもの書きになるまでを描いて『門』の後日談とした、と読み解いた。
 「『門』にはロンドン留学直前の、『道草』では留学後に東大講師を務めた漱石自身が投影されている。どちらも自らが作家へと変身する過程を通じ、これから世の中へ出る若者を勇気づけようとする意思が感じられる」という。米ミシガン大などで日本文学を教えていた熊倉さんは、これまでにも『漱石のたくらみ』で新解釈に挑んできた。「近代日本の知識人の典型とされた漱石は苦悩する姿が強調されてきた。それが誤解を生んでいる」と話している。(09年8月24日 読売新聞)

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2009年8月21日 (金)

大沢在昌小説展:名古屋で、生原稿や愛読書など展示

 「名古屋ゆかりの直木賞作家-ハードボイルドの世界・大沢在昌小説展」が9月6日まで、名古屋市東区橦木町の「文化のみち二葉館」で開かれている。
 『新宿鮫』『天使の牙』などの小説で知られる大沢在昌さんは名古屋市出身。独自のハードボイルド小説をつくり出してきた足跡を、両親や作家仲間との写真▽趣味の釣りの写真▽「新宿鮫」シリーズの生原稿などの資料▽名古屋が舞台の「シャドウゲーム」に登場する風景写真▽最新作『罪深き海辺』(毎日新聞社)などの大沢作品や若いころの愛読書--などの展示で知ることができる。
 また、大沢さん自身による『雷鳴』の朗読を視聴できる展示室(1日2回)も設けられている。午前10時~午後5時。月曜休館。入館料一般200円。問い合わせは同館(電話052・936・3836)へ。(毎日新聞09年8月20日夕刊)

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2009年8月20日 (木)

「文芸同人誌評」週刊 読書人(09年8月14日付)白川正芳氏

西本綾花「弧と球、あるいは∞(無限大)」(「三田文学」98号)、樋渡喜美子「赤ちょうちん」(「佐賀文学」26号)
「九州文学」6号、高尾稔追悼より畑島剛
「同時代」26号、特集「掌・手・て」より富田裕「天と地を結ぶ手」、谷口正子「『手』
「私小説研究」(法政大学)10号、終刊号の特集「私小説の可能性」より勝又浩「同人誌と私小説」、秋山駿「私小説は〈革命〉」(インタビュー)
「人物研究」23号より野口周一「知られざる下村湖人」、安宅夏夫「竹久夢二新説」、松本卓「ユニクロ・柳井正の決断」
陽羅義光「安吾に就いて」(「構想」46号)、中川治一「弥介よ、トンビが舞っとる」(「美濃文学」80号)、川島徹「残された時間」(「文学街」263号)。(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)

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2009年8月19日 (水)

「同人誌時評」(7月)図書新聞(09年8月15日)福田信夫弘氏

『丁卯(ていぼう)』25号の栗原雅直「馬込文士村」、『みちくさ』2号の「特集 鴎 小泉純一と岸本捨吉から見る現代青年考」、小野文夫「『破戒』と『竹取物語』」、中村克二「鴎外の『鶏』と16年前の巻頭言」、前之園明良「『澀江抽齋』-俗眼でみる」
『季刊 春秋山形』より結城亮一「捏造された『佐藤千夜子伝』、関広子「明治女のアメリカ生活日記」、『コブタン』32号(特集・鳩沢佐美夫)より須田茂「鳩沢佐美夫ノート『灯』について」、『弦』84号より中村賢三「同人誌の周辺」、『文学街』261号より遠野美地子「神の回廊」、『文芸復興』20号(通巻120号)より会田武三「卍(まんじ)」、『農民文学』283号より木村芳夫「土の舞」、『酩酊船』24集より竹内和夫「野に棲む年月-高見堯の死と『酩酊船』の表札」、『雑木林』12号より「尾田玲子さんを追悼する」で水野みち、三木祥子、安芸宏子ほか6名、前号は北川荘平追悼号
<福田信夫氏が健康上の理由で原稿執筆が遅れたため、志村有弘氏の論稿(8月)の後に掲載>
(「文芸同人誌案内」掲示板・ひわきさんまとめ)

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2009年8月18日 (火)

文芸誌「照葉樹」第7号(福岡市)

本誌は、博多弁というのか、九州弁というのか、ローカル色のある言葉を活用して、どの作品も面白い。文芸誌たろうとする意欲作がそろった。

【「遊境」水木怜】
これは認知症の老女の独白体の物語である。嫁が盗みをし、謀略を企てているという思い込みを軸に、その独白によって、老女の現実認知の力が衰え、認知症が進行し、人格が崩壊しゆく様子が読者に伝えられてゆく。語り手の話の内容を読者が点検し、そこで何が起こっているかを推理させるスタイルである。
 この手法には文章の技巧力が必要とされる。そういう意味で、作者の文章技術で読ませるエンターテインメント作品である。脳の進歩と退化をテーマに、独白日記体での成功例としてはダニエル・キース.「アルジャーノンに花束を」という外国作品がある。この小説は、当初は技巧的な短編小説であったが、作者がさらに10年かけて技巧に磨きをかけ、長編小説にしてベストセラーになった。
 ところがこの「遊境」には、オチがない。自分は読んでいて、老女の嫁が謀略をしていると語るのは、読者には妄想と思わせておいて、現実は事実で、嫁の何らかの謀略があったという、オチがあるものと思って読んでいたので、そのまま終わってしまったのに、驚かされた。そういう意味で意表をつかれたが、それは欠点に思えた。

【「銀玉と吉子」水木怜】
 吉子の亡くなった夫は、パチンコ好きで吉子も一緒に遊んだ。その夫が亡くなってしまう。さびしさと生きる目標を失った吉子はパチンコで夫を偲び、我を忘れる生活になる。
 そんな時に偶然、高校時代の同窓生だった芝原に出会う。芝原も妻を亡くし、独身の寂しさを抱えている。まじめでパチンコはやらない。
 家事をしてやり、その交流の成り行きから、吉子は彼のマンションに泊まるようになる。そんなある時、彼の金、10万円が部屋に置いてあるのを見つけてしまう。
 パチンコ狂いの吉子は、そこから万札を何枚か抜き取り、パチンコをする。勝つと持ち出した現金を戻すようになる。
 そのほか、夫を失った後、生活のためか、男好きのためか、男をあさってはたかることで生活をしている冴子が出てくる。どれも興味がつきない設定である。
 大変面白い物語で、芯のある娯楽物として楽しめる。最後に違法な高利貸の登場が、効果的であるが、整理がしっかりしていないところが気になる。気にさせるところがあるほど、物語に吸引力がある。

【「同行」垂水薫】
 これは、作家的な手腕とロマンの表現にすぐれた作品として、大変に感心し、面白く読んだ。話は、陣痛のはじまった主人公の視点で、出産までの陣痛の苦しみの合間に、これまでのいきさつを回想する。読者を離さない手法として、これは効果的である。
 彼女の回想によると、夫は母親思いなのかマザコンなのか。その夫に出張の間、姑のそばに居てくれ頼まれ、なんとかそうして、おだやかに暮らしいている。そのなかで、元の会社の上司だった男と知り合い。恋愛関係になる。男にも妻がいる。不倫のなかの主人公の恋心が読みどころ。そこで、妊娠したのだが、どうも夫には子種がなく、子供の元は上司ではないかと思わせる話が語られる。
 夫と姑は、そんなことつゆ知らず、産みの苦しみを励ます。無事出産したものの、彼女は生命の危機に陥り、意識が消えていく。
 読み方はいろいろあるであろうが、自分にとってこの作品の読みどころは、いざとなれば身勝手に去ってゆく元上司への、主人公の恋と情熱である。ロマンとしての恋愛が描けている。それが稀有なのである。これまで読み方が悪いのか、同人誌でロマンとしての恋情が描かれたものに出会ったことがない。(恋と思い込んでいるだけで、恋に関するようなだけで、そうではないのがほとんど。そういうのが恋愛小説として、ほめられている評などを読むと、違和感を感じてしまう)。描ける人がいるのだと、大変驚かされた。
 小説は、恋を失った女性は、子供を産んで死ぬのが象徴として活きている。それでも、当然であるが、悲しい話である。これが計算しなくても必然の構成になっているところがセンスのあるところに思う。F・サガンは恋の不条理しか小説のテーマにして書かなかった。本作品は、中どころと、ラストが良い。久留米のサガンとして、期待したい。
発行所=〒811-0012福岡市中央区白金2-9-2、花書院。

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2009年8月17日 (月)

同人誌「石榴」第10号(広島市)

【「歯」木戸博子】
1995年頃に、父親の死を迎えた娘の回顧である。老人の認知症という表現もなく、痴呆症という概念も明確でなく、さらに介護制度などもない。老いた肉親は病気であれば、病院へ、そうでなければ自宅介護となる。しかし、通常の家庭では自宅介護はすぐに行き詰る。それぞれ家族の生活あるからである。受け入れてくれる病院を探すのも、大変である。
 ここでは、自宅介護から病院へ入院させた娘が、もっと長生きをすると思っていたところ急に病状が悪化し、亡くなってしまう。そこに至るまでの娘の、父親との交流と意外な亡くなり方への後悔の念が描かれている。歯というのは、病院へ入れた父親が入れ歯をしておらず、看護の人たちから歯を使う食事をさせられていないことに娘がこだわる。そうして、死んだ後に、入れ歯をさせてあげたいと、病院がしまってしまった入れ歯を出してもらうと、入れ歯は本人の手で割られ使い物にならなくなっていた、というところで終わる。
 この時代、オームのサリン事件がニュースになっていたことを書き込み、時代背景がしっかりおさえてある。また、現実に父親を介護したときの、身についてしまう臭気、病院内での死臭など、臭いという五感の働きを表現に取り入れ、人間の死に直面した状況のイメージを明確に表現する視点に優れている。その細部によって、父親の性格や作者の細かい心情が、説得力をもって、語られている。
 自分もオーム裁判の時期に、会社を辞め、父親の介護をし、老人性の感情失禁というか、傍若無人な自己主張で、介護人には断られ、病院に入れれば不穏な言動だと呼び出され、自らの手はいくら洗っても、食事のたびに箸を持つ指から糞尿の臭いがしたものだ。個人的に、大変に心を動かされた。それは体験の共通点によるものであろう。確かに、私ひとりには、表現の意図は通じた。一人に感動を与えたのは、大変なこと。
 そういう良さがあるのだが、文芸作品として、どれだけの成果があるかというと、どこか、主婦の心情を吐露したレポート的なイメージがつきまとう。手際が悪く書かれていれば、わかりにくいものが、よく整理され優れているが故に、足りないものが浮き出してくる、という皮肉な結果になっているようだ。
 文学としてのポイントは父親の老人の業というようなこと、それを凝視する娘の感情の2点で、それらを組み合わせて純文学の素材にしている。この作品にはさらに体験者の思い入れがある。この思い入れこそ書く動機であろうから、欠かせない。同人仲間からは賞賛されるであろうと予想される。これでいいとするか、「もっと工夫して書くべき」とするか、自分も迷う。一応、もっと……、としておこう。父親の死に際の観察と、臭いへのこだわりは、作者の勘で純文学への扉を示しているのではないか? その壁を、もう一押しあれば……。同じ作者が本誌でスタインペックの「菊」の評論を書いている。シャープで、素晴らしい。勉強になった。

【「つづいて尾崎翠」高雄祥平】
 尾崎翠という作家はしならないが、知らなくても面白く読める。兄妹の愛を表現するのに、作家がそれを社会的なモラルを意識して、どう自己体験の表現の欲望を調和的に表現して見せるかを、難しく論じているが、わからないながら大変面白い。勉強になった。
発行所=〒739-1742広島市安佐北区亀崎2-16-7、「石榴編集室」。

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2009年8月15日 (土)

文庫フェア真っ盛り

文芸文庫を中心とした夏の文庫フェアが真っ盛りのなか、アスペクトと廣済堂あかつきの雑学文庫が好調だ。アスペクトの文庫版「死ぬかと思った」(林雄司編)シリーズ4点の累計発行部数がこのほど、約56万部に到達。7月26日付の日販の文庫ランキングでは、文芸作品が軒並み上位を占めるなか、『思考の整理学』(筑摩書房)とともに上位に食い込んでいる。廣済堂あかつきの『すごい!ホメ方』(内藤誼人著)は2007年の刊行だが、今年に入ってから営業担当者の地方営業で火が付き、8月までに5回重版。8月3日現在で累計7刷・5万4000部の発行を決めている。
 アスペクトの同シリーズは、今年3月に1巻(初版8万5000部)、2巻(同7万5000部)を同時に発売。続けて、7月には3巻(同7万部)、4巻(6万部)を同時に刊行した。8月3日現在では、1巻が累計24万1000部(7刷)、2巻が同14万7000部(7刷)の発行(ともに7刷は7月11日出来)。3巻は同9万1000部(3刷)、4巻は同8万3000部(4刷)を発行している。
 とくに、売行きがいいのが駅前・駅中や空港の書店。第1巻の売行き調査(アスペクト)によると、BOOKEXPRESS桜木町店が7月24日までで1600冊以上を販売して断然トップ。そのほか、三省堂書店成田空港店や丸善横浜ポルタ店が4ケタに手が届いているという。巻数ものの売行き傾向と同じく、巻を重ねるごとに、第1巻の売行きが上昇している。客層は男性4、女性6。小学生から60代と幅広く読まれているという。
同書の親本はすでに9巻までを発行しており、コミック作品も2点あるという。今後は年内に文庫の続刊などを発行するほか、映像化も検討しているが、まずはシリーズ4点で累計100万部を目指す。
 廣済堂あかつきの『すごい!ホメ方』は07年9月に初版2万1000部を発行したものの、08年7月の4000部重版で動きは止まっていた。しかし、今年からブックスキヨスククロスト店や札幌弘栄堂書店アピア店など一部の書店の仕掛けで火が付き、今年6月からは紀伊國屋書店全店での展開が始まるなど大手チェーン店にも波及している。その結果、今年3月に3刷・4000部、4月に4刷・5000部、7月には5刷・1万部、6刷・6000部を発行。8月7日出来の7刷・4000部も決まり、立て続けに版を重ねている。
 当初はビジネスマンや就職活動の大学生が客層の中心だったが、現在では若い男女などにも読者層が広がってきているという。(新文化09/8/6号)

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デジタルガーデン「詩人回廊」巡回記(4)

 中原中也「散歩生活」では、町のカフェで、男が親戚に「シャッキリした生活をしなさい」と注意をされている。
 社会で、若い者が自由な生活を楽しんでいると、まわりの者が気にかけて世話をやいている仕組みがあった。「散歩生活」を望む者にとって、自由を束縛するのは、かれら世間の誰かであった。そいう意味で、世間の世話焼きの視線は敵対的に感じたのである。
 現代のニートはどうだろう。ニートは自由な生活を楽しんでいるのであろうか。ニートを心配して世話をする人はいるのだろうか。世間という社会は、彼に無関心で黙殺する。まるで存在しないかのように無視する。社会は、彼の存在に無関心で、仲間入りを拒む存在として、敵対的に感じるのである。
 「散歩生活」というものなど、今も昔も社会は認めない。しかし、中原中也はそれに反抗して「詩人」としての自分を生きるしかなかった。自身そのままの理解者を求め続けたのではなかろうか。
 それに対して、現在のニートは「何々として生きる」というものがないのであろうか。もともと、サルトルは、人間の存在は、道具のように目的があって存在しているものではない、としている。人間を目的化する宗教・神は、居ようが居まいが、かまわない。無関心となる。
 昔は桎梏として受け止められていたものが、今は人間関係の希薄が問題だという。
参照:「居場所なき若者たち」支援の現場から(6)「なぜ、立ちすくむのか?」その内なる事情
 「詩人回廊2009」は、こんなことも考える手がかりになればいいな、と思った。Sijinkairo
 フィッツジェラルドが「偉大なるギャツビー」で、「我々は川の流れに流されながら、それに逆らって漕ぎ続けるであろう、明日こそは、明日こそはと…」書いたように、この時代をかえるなかで生き残るものが、社会を作る。しかし「散歩生活」を希む人間はなくならないであろう。

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2009年8月14日 (金)

デジタルガーデン「詩人回廊」巡回記(3)

《「詩人回廊」サイト》09年5月の「文学フリマ」に参加できることになったので、セレクションした作品を「詩人回廊2009」という雑誌的な手作り本にした。「文フリ」では、プロもアマも同じ市場で、本を販売するというのが、うたい文句のひとつである。期せずして、「詩人回廊2009」は、著作権の切れた歴史的なプロの作家のものと、会員の作品が同じ誌上に掲載する方法を選んだ。
 先月国際ブックフェアに行って、姜尚中氏教授の講演を聞いた。話は、マックス・ヴェーバーの思想にからんで、社会科学の思想は、現代社会においても十分通じるものであり、古典を超えるような信頼できる理論は生まれていない、というもの。
 これからは、それらの古典を新しい視点でリサイクルし、説得力をもつ出版能力が必要だ。編集者が古典を素材として現代にどのような息吹を与えるかが、問題だとする話をしていた。
 姜尚中氏の講演は、社会科学の専門家としての狭い範囲であったが、その現状は文学界とずいぶん重なるところがあるのを感じた。
参照:古典で出版界の「“TBS化現象”から脱出しよう」、姜尚中氏が語る=東京 「詩人回廊2009」では、現代に生きる古典として、歴史上の著名作家の作品を掲載しながら、そこに何の解説も付けなかった。あとで考えると、編集人がなぜ、その作品を選んだかという編集上の理由を書いて付け足した方が良かったかな、と思った。現実にはそれを実行すると、本が厚くなり、実現しにくいのではあったが。
そこで、ここでそのセレクションの意味を記して置こうと思う。これは文芸同志会の活動のポリシーを強く反映させたものでもあるからだ。 まず、第一に選んだのは、中原中也の《「散歩生活」(1~3)》である。タイトルからして気に入った。まず、基本的に散歩していては生活ができない。しかし、詩人は散歩生活がなくしては、詩人ではなくなってしまう。
 いわゆる引きこもりやニートと同じ状況である。そこに、現代と同じようで同じでないものがある。では、どこが現代と異なるのか。そこを知ることができる。ここでいう現代とは、自殺者が3万人を超え、うつ病にかかる人が増えたという印象を与える社会の息苦しさである。中原中也の時代の社会は、それはどうであったのかである。

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日本ファンタジーノベル大賞の遠田潤子さん(43)

 夕食の空揚げを揚げていて受賞連絡を受けた。「もう頭が真っ白……」。小説執筆を隠していた中学生の娘2人に打ち明けると、「いつも部屋にこもって、あやしいと思っていた」と祝福が。「街で自慢していいって聞くので、あわててとめました」。18年の専業主婦生活から一転、作家デビューが決まった。
 受賞作「月桃夜」は、薩摩藩支配下の奄美大島で過酷な境遇に置かれた少年が、碁で名を上げ「妹」を救おうとする物語。夫のルーツが奄美だったことから島の歴史に興味を持ち、過去と現代を結ぶ悲恋を紡ぎだした。選考会でも「これだけ緻密(ちみつ)に奄美を描いた小説は初めて」(椎名誠委員)と評価された。
 ボケとツッコミは自然に出来るという大阪人。結婚後、育児や母の介護に追われたが、35歳を過ぎて余裕が出来、パソコン購入をきっかけに5年前から「家事の合間に」創作を始めた。「ドストエフスキーや森鴎外のように、理不尽な何かを書く」のが目標だ。今は、本を世に問う「社会的責任を持つ怖さ」も感じている。「100年後とは言わないけれど、50年後に残る作品が書けたら」(文化部 佐藤憲一)(09年8月13日 読売新聞)

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2009年8月13日 (木)

「第19回紫式部文学賞」に、桐野夏生さん「女神記(じょしんき)」(角川書店)

京都府宇治市は、女流文学を対象にした京都府宇治市は11日、女流文学を対象にした「第19回紫式部文学賞」に、桐野夏生さん(57)作の「女神記(じょしんき)」(角川書店)を選んだ。「女神記」は古事記のイザナキ、イザナミの物語を題材にし、主人公の巫女(みこ)が夫に対して抱く激しい愛憎などを描いた作品。

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同人雑誌季評「季刊文科」第45号(09年7月31日発行)

◆勝又浩氏「戦後は……」
間宮武「夜叉王」(「文学街」259号、東京都)、下澤勝井「窪み石」(「土曜文学」4号、立川市)、刀根さぶろう「卯之吉」(同)、吉田典子「菊池つん」(「サボテン通り」9号、函館市)
「カプリチオ」29号、東京都より加藤京子「モノクロームに捧ぐ」、小谷剛特集から草原克芳「ストイックな偽悪家」
犬飼和雄「生口幻話」(「Caravan」12号、横浜市)、黒川欣映「島原一揆」(同)
「こみゅにてぃ」(和光市)は「創刊八十号記念特集」。同誌より三浦美恵子「長屋門」、寺村茂「万歩計」
和田信子「猫のいる家」(「南風」25号、福岡市)、松本文世「シャトウ・デ・カシス」(同)
◆松本道介氏「小説の語り口」
森岡久元「三原まで」(「姫路文学」121号、姫路市)、寺元親平「流説尸解記」(「彩雲」2号、浜松市)、鷹宮さより「Rの夢」(「りりっく」19号、川口市)、難波田節子「夕映えとりんどう」(「河」150号、東京都)、波佐間義之「君はナベを知っているか」(「九州文學」第5号、中間市)、大野陽子「追想 大野晋先生のこと-百年のちには」(「ふぉとん」13号、鎌倉市)、大塚滋「廃曲」(「文学街」84号、大阪市)、杉山平一「素粒子と新しがり」(同) (「文芸同人誌案内」掲示板・日和貴さんまとめ)

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2009年8月12日 (水)

文芸季評2009(読売新聞8月8日)池田雄一氏(文芸評論家)

「メロドラマという神話」
《対象作品》村上春樹「1Q84」(新潮社)/辻原登「許されざる者」上・下(毎日新聞社)/島田雅彦「徒然王子」(朝日新聞出版)/磯崎憲一郎「終の住み処」(新潮社)/同「世紀の発見」/戌井昭人「まずいスープ」(「新潮」3月号)。

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2009年8月11日 (火)

同人誌「海」(第Ⅱ期)創刊号(福岡市)

(おわび・再掲載=対象作品の作者名に誤りがありました。申し訳ありません。お詫びします。修正再掲載します)
【螺旋階段」有森信二】
 語り手である高木の友人で、市会議員をしている佐伯が、愛人のマンションの5階から転落する事故から話が始まる。当初はそれが致命傷で、社会的な再起は困難と思わせるものであった。しかし、意外にも彼は奇跡的に元通りの身体に回復し、活動をはじめる。佐伯は、愛人問題のほかに、選挙違反に手を染めている噂もある。
 高木とその友人仲間は、彼の転落事故が、そうした問題から周囲の目をそらすために、計算づくで転落事故を起こしたのではないかと疑いはじめる。
 男同士の友情と不信をお互いにプライバシーに踏み込めない微妙な関係をミステリー仕立てで描く。曖昧さを含んだ描き方で、人間関係の内にある曖昧さと、危うさを描いている。

【「うたかた」北里美和子】
 教師をしている岡島は、弟の起業する資金調達をするために保証人になる。それは岡島が長男であるのに、親の面倒を弟に任せている後ろめたさが一因であった。
 そこから、岡島がこれまで持家をもたずに借家暮らしを通し、教育の仕事に全力を注いできたこと。それに対し、妻の鈴子は持ち家でないことに不満を持ち、家を買って欲しいと思っており、夫を住宅展示場に向かわせる。
 そこで、岡島の万物流転的発想の無常観をもつ性格であることが描かれる。この固定資産を持とうとしないところは大変面白い。ただの損と得の問題でなく人間のらしさの発露として描けばよい純文学作品になる。それを逸している。
 やがて、弟が事業に失敗し、行方不明になる。保証人となった岡島は退職金を失うことになるので、妻に離婚をすすめ、せめて妻の取り分だけでも確保してあげようとする。妻は、自分たち夫婦の関係はなんであったのか、と反対する。
 細部のもっともらしさに不足があるのが欠点。読みやすい物語を書く力はある。が、問題は小説になるところと、小説にむいていない書きどころが混在しているところにあるようだ。
 タイトルの「うたかた」というところからすると、作者は人生の無常なところを軸にしているようだ。無常観をもった男を詳しく哲学的な思弁をいれて描くところは、危ういところで、ようやく小説になっている。普通はここはカットするようなところ。しかし、表現の神は細部に宿るというところもあり、作者の可能性を感じさせる。岡島が弟の保証人になったところを書いたら、結果は予想がつく。それでも書き込んで読ませるところがあれば純文学になる。保証人になって、ピンチになるが思わぬ出来事で、無事にめでたしめでたしになるなら娯楽小説である。これはどちらでもない出来上がり。

【「氷海の航跡」牧草泉】
 エッセイ風でもあるような自由なタッチで、オフィスレディの眼をとおした日本人と韓国人の関係を題材にして書いている。世代の変化によって日韓相互の意識が変化していくのか、ある時期のその意識を表現している。

【「桜」由比和子】
 江戸時代末期の大奥の世界にいる和光院という女性の身の上と心情を小説化したもの。現実離れしたところがあるが、そうなのかもしれない、と思わせるような、柔らかな表現力で和光院の視点からの物語にしている。
発行所=〒810-0012福岡市中央区白金2-9-6、TEL092-531-7102。

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高城高さん約40年ぶり新作『函館水上警察』(東京創元社)

研ぎ澄まされた文体 健在
今年は函館の開港150周年。「いい時に合った」と語る高城さん 日本ハードボイルドの草創期に活躍した作家の高城高(こうじょうこう)さん(74)が、久々の新作『函館水上警察』(東京創元社)を刊行した。研ぎ澄まされた文体は健在だ。(川村律文)
 高校時代からヘミングウェーやハメットに親しんでいた高城さんは東北大在学中の1955年、進駐軍でにぎわう仙台を舞台にした短編「X橋付近」でデビュー。雑誌「宝石」などに作品を発表し、国産ハードボイルドの草分けとして大藪春彦、河野典生とともに「三羽烏(がらす)」と称された。ただ、新聞記者の仕事が忙しく、70年の短編を最後に、30年以上も筆をおいていた。
 しかし、2006年に仙台の出版社が編んだアンソロジーが注目され、執筆を再開。昨年の全4巻の文庫版全集(東京創元社)の刊行にあわせ、新作に着手した。「雑文やノンフィクションは書いていた。ワープロに向かうのはごく当たり前の作業でした」
 タイトルの水上警察署は、明治中期の「函館新聞」で見つけた題材。署の蒸気船の記事から、函館らしい警察署の活躍を通して港町を描けると考えた。「イギリスなどの水兵が街を潤し、西洋料理店もあった。街全体がモダンだった」。遊郭で羽目を外す水兵、密漁船の寄港……。新聞の逸話と、函館税関に残る公文書を読みこみ、異国情緒漂う連作短編を作り上げた。
 時代小説ながら、心理描写を排した文体はハードボイルド的。「言葉を大事にしなければハードボイルドではない」という思いから、二葉亭四迷などの作品を読みこみ、当時の言葉を会話に生かすことに注意を払った。「背景やしきたりの説明がいるから、時代小説はどうしても長くなる。心理描写までやっていられない」。こう語るのも、若い頃に表現をギリギリまで絞った経験からだろう。
 70歳を過ぎ、満を持しての執筆再開。「三十何年ぶりに時代小説を書いて、いつの間にか死んだ、というのでは格好悪い。いずれ現代ものの作品も書かないと」と穏やかな笑みを見せた。(09年8月4日 読売新聞)

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2009年8月10日 (月)

詩の紹介 「年々歳々」 皆木伸昭

(紹介者 江 素瑛)
生きていることは、つねに変化のなかにいることです。血圧と脈拍の微動と同じ、刻々変わるのです。死ぬ時は、物質そのものとなり、血圧も脈拍もゼロになる。生き物にとっては、唯一変えられない事実です。人も花も「変わるために」生きるようなものでしょう。懐かしまれるために存在する、ということではないのかも知れません。
   ☆
「年々歳々」    皆木伸昭

  年々歳々花同じゅうして
  年々歳々人同じからず
中国の故語は
確かにそのとおりであるが
決してそうではないとも思う

かつて
田んぼや畑の畔や野や山に   
いっぱい咲いていた花が
すっかり姿を消して
いままで見かけなかった花が
ここかしこに咲いている
たんぽぽのように
ちょっと見ただけでは同じようで
よくよく見るとちがう花もある
去年までは見かけたのに
今年はいくら探しても無い花もある

年々歳々
人も自然も同じではないのだ

「岩礁」139号より  三島市・岩礁の会(09年6月)

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2009年8月 9日 (日)

デジタルガーデン「詩人回廊」巡回記(2)

《「詩人回廊」サイト》著作権の話の続きである。コンテンツエージェントと交流があったときに、ついでに、この「詩人回廊」の会員の作品を使ってみないかと、らいせ氏のゲーム寸編小説をもちかけて見た。丁度、文学フリマの参加の準備の時期に、そんな話が出た。すると、向こうは、それは貸し出すのか、買取りなのか、料金相場は?とかの反応があった。作品の貸し出しという方式は、知らなかったのできいたところ、コストを下げるために、借りるだけで、作者は作品をどこにでも使いまわしができるというのだ。相場を出して欲しいというので、1作品、貸し出しは五千円、買取は一万円と伝えた。当方は早速折り返し、らいせ氏に、交渉が成立したら文芸同志会に2割を納入してもらうこと、もし買取りが出たら、「庭」から作品を削除することを条件にすると伝え、了承してもらった。そしたら向こうから、相場を聞いてみたかっただけで、これから検討するということであった。これから検討するということは、いらないということである。こういう話は、以前にもあって、なんでもカレンダーの図案会社から、写真に詩を載せたいので、適当なのはないか、というのがあって、一応作って送ったが、別の優秀作品があったということで、入札負けしてしまったこともある。そういう意味で「詩人回廊」を苗から育て、活用して行く考えももっている。どれも実現しにくいイメージだが、このデジタルサイトの存在意思のひとつとして例に出したものだ。

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同人誌「仙台文学」第74号(仙台市)

 本誌の同人である渡辺光昭氏の小説「ゆうどうえんぼく」が2008年度宮城県芸術祭文芸賞(県知事賞)を受賞したとある。
 また、同人の色川氏の運営による宮城県芸術祭文芸部活動の「文学散歩」企画がある。9月29日(火)~30日(水)に「文学散歩」(一泊)を開催する。軽井沢高原文庫を、藤村記念館、一茶館、無言館(太平洋戦争で散った画学生たちの遺作品)を巡り、戸倉上山田温泉泊。参加費3万円。だれでも参加できる。
 
【「幻のブタ」佐々木邦子】
 ブティックで派遣店員をしている語り手の「私」は、町角でブタがいるのを見る。それが幻視であるのか、犬を見間違えたのかははっきりしない。そして、店の従業員の間では、昔の不幸の手紙のような、受信したら誰かに発信しないと不幸がくるというブタメールが流れる。
 そこから子どもの頃に、父親と散歩した思い出があり、農家のブタ小屋の汚い飼育ぶりを見る記憶がよみがえる。その時、父親がブタは元来清潔好きだが、飼い主が不潔に飼っているのだと語る。
 その一方で、故郷から妹が押しかけてきて、同居し結活をしている。何故、妹が家を出たのかという家庭の内輪話がそこに入る。その妹の戦略的な結婚はうまいきそうである。
 仕事場では、手腕のある店長が派遣だとわかり、「私」は驚く。そして、彼女が韓国系で、差別される中を、仕事で頑張ってきていることがわかる。
 盛りだくさんの素材を押し込んで、なんとかこの猥雑な時代を表現しようとする苦労の跡が見える。なんとも言えない社会の雰囲気の一端が表現されている。ただ、それぞれのテーマについては、深く掘り下げることをしていない。総花的に象徴的なエピソードの羅列になった感がある。とはいえ、意欲を持った力作ではある。

【「榧(かや)の木の下で撮った一枚の写真」渡辺光昭】
 姉の暁子は、中学を卒業し集団就職で東京に洋服店を出したいと夢見て、都会に出たが、心労のためか、精神に変調をきたし、入院生活をするようになる。彼女の弟の視点で、病院を脱出したり、奇矯な行動をする姉と、その家族の精一杯の努力の様子を描く。本人の身上も気の毒だが、その家族が一枚岩となって、暁子の世話に苦労をする様子が、よく伝わってくる。
 この話が創作的なら、世話をする弟の両親の視点で、暁子の入院先での様子も描けるのであるが、あくまでも脇役の弟の視点から動かない。ほとんど、事実的な裏づけから来ている話であろう。淡々とした表現のなかに、家族への情愛があふれている。現在の若者の中には、景気のいい高度成長時代に生きて見たかった、という気分があるが、その時代でも犠牲なっている人たちがいるということを強く感じさせる。
発行所=〒981-3102仙台市泉区向陽台4-3-20、牛島方、仙台文学の会。
(紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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2009年8月 8日 (土)

高村薫さん「太陽を曳く馬」 殺人とは 仏教で問う

言葉の蓄積 殺生戒に重み
「戦争、殺人、巨大地震……。理不尽な死を経験してきた私たちは、仏教を再発見していくべきです」と語る高村薫さん=追野浩一郎撮影 高村薫さん(56)の長編小説『太陽を曳(ひ)く馬』(新潮社)は、動機の見えない殺人に、青年僧の轢死(れきし)という、一見関連のない事件を重ね合わせた。そこには人を殺すとはどういうことかという根源的な問いかけがある。(浪川知子)
 「時代を描く」ことを目指し、曹洞宗の僧侶、福澤彰之を登場人物の中心に据えた3部作の完結編。『晴子情歌』で戦前から戦後復興期を、『新リア王』で経済発展の頂点をとらえた作家が、新作の背景にしたのは、「20世紀の常識が通用しなくなった9・11テロ後」の時代だった。
 幼い頃から他者と交わらず、ただ絵を描くことだけに熱中してきた青年が、同居していた妊娠中の女性と、隣家の大学生を惨殺する。「うるさい音を消したかった」。それが彼の述べた唯一の理由だった。
 高村さんは「どんな“動機なき殺人”も何らかの理由はある」という。
 「究極の動機は、自らの存在確認としての殺人です。身体を動かすことで世界の手触りを得られ、死にゆく相手との比較で自分が生きていると実感できる。無差別殺人犯の『だれでもよかった』という言葉は、それを表しています」
 一方、元オウム真理教信者でてんかんを患う青年僧が、車にはねられて死亡した。僧の両親は彼を預かる寺の責任を問い、告訴状を提出する。
 両事件の捜査をするのは、多くの高村作品で主人公だった警視庁刑事、合田雄一郎。合田は、福澤彰之が、殺人を犯した青年の父であり、青年僧を寺へ迎えた当事者だと知る。事件について苦悩し、「なぜ」と考え抜く彰之。合田は彼の思考の跡を追いつつ、寺の他の僧侶たちを相手に、仏を信じるとは何か、仏教とオウム真理教の違いはあるのか、と議論を深めていく。
 見えにくい現実を言葉でとらえ、思索する人間として、高村さんが設定したのが仏教者の彰之だ。なぜ仏教なのか。
 「他の宗教が善悪をはっきりと分けてしまうのに比べ、仏教はそれをしないからです。〈悪〉を切り捨てたり、断罪したりしないのは重要なこと。9・11テロやその後のアフガニスタン、イラクでの戦闘を経た現代人は、正義と悪を単純に線引きできない世界にいることを知っているはずです」
 この数年、道元の「正法眼蔵」などの仏教書を丹念に読み込んだ。2500年の歴史を持つ仏教は、ものを考えるための道筋や言葉を十分に蓄えていると感じた。「言葉は人間に道を誤らせないための安全保障。突然現れた超能力者には、そんな言葉の蓄積がない」と、オウム真理教と伝統仏教の違いを指摘する。
 問いを発し続けた彰之は、最終的に「息子は殺したいから殺した」という理解に達する。
 「人間には殺さない意志も、殺す意志もある。すべてをひっくるめたのが人間の存在だというのが彰之の得た認識であり、仏教者の理解です。それを知っているだけで、殺人を犯す人を見る目に違いが出る。その上で『殺すなかれ』という仏教の殺生戒が意味を持つのです」
 執筆に際し座禅を組んだり、元オウム真理教信者に取材をしたりはしなかった。「小説は経験したかどうかとは別。どれだけ言葉の拡張子を持っているかで決まる」との考えからだ。
 殺人への問題意識は、来年から週刊誌で始まる連載にも引き継がれる。
 「トルーマン・カポーティの『冷血』の現代版を書きたい。宗教の名の下に大勢の人が殺され、わずかなお金のために命が奪われて、今は人の命が軽くなっている。そんな地べたの現実を見つめていきます」(09年8月4日 読売新聞)

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同人誌時評(8月)「図書新聞」(09年8月8日)志村有弘氏

《対象作品》小説:笹沢信「君になれし……」(山形文学第97号)、桜井克明「夢の中から」(残党第29号)、会田武三「卍」(文芸復興第120号)
戯曲:秋間瑛子「一期は夢か、ただ狂え」(京浜文学第14号)
同人誌掲載作品の単行本化:詩誌「花」より『花』、「九州文学」連載の暮安翠『青狐の賦』(九州文学社)と麻生富久男『残燭』、原石寛の手製作品集『文苑記録集』と『愛欲』、原石寛「老いの花」(文学街第263号)
研究・エッセイ関係:「竺仙曼陀羅」(東海大学古典文学注釈と批評第5号)、崎村裕「林俊論の試み(前編)」(構想第46号)、「コブタン」第32号は鳩沢佐美夫特集で須田茂の鳩沢の「灯」論・須貝光夫「哀悼・鳩沢佐美夫の母美喜」、橋爪博「伊良子清白と俳句」(文宴第111号)、「文藝軌道」第5巻第2号より坂本良介「尾関忠雄という作家」・田中有男「伊丹万作と十三」・登芳久の連載「土岐雄三の光と影」、斉田仁「国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空(無頼創刊号)
詩:仁科龍「ただひとたびの」(鮫第117号)
短歌:伊藤蛍「源氏物語」(歌筵第23輯)
休刊:「日田文學」第57号にて
追悼など:「猿」第64号が今西桂子、「かばん」第303号が笹井宏、「九州文学」第528号が鷲尾稔と黒木淳吉と戸島哲男、「京浜文学」第14号が梨地四郎と福田穂兄、「日田文學」第57号が諫山秀子、「別冊關學文藝」第38号が中尾党士、「杭」第51号が槇晧志、「綱手」第252号が植村とよ子。(「文芸同人誌案内」掲示板・日和貴さんまとめ)

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2009年8月 7日 (金)

デジタルガーデン「詩人回廊」巡回記(1)

《「詩人回廊」サイト》これは、デジタルガーデン「詩人回廊」編集人の巡回記である。最近の「文芸同志会通信」は、何故か「文芸情報センター」とでも思う人がいるらしく、事務所に電話をかけてきて、公募小説の締め切り確認や、市販本の出版時期、作品紹介した同人誌の入手先、過去の作家の作品本の在り処などの問い合わせが増えている。
 そのなかで、数は少ないが、交流会員から作品の発表がないではないかという声が以前からあった。その場としては、この情報収集限定ブログでは相応しくない。
 そこで、別にサイトを作った。ただ、そういう人は、俳句を書いて送ってくることが多いという印象があった。そのことが頭にあって、短い詩とか俳句で良いように、1回に1600文字以内というような内規を作った。それと、運営するほうも、投稿するほうも、単純で複雑なことはしないということを原則にした。また思いつき参加を減らすため、年会費を復活し、投稿参加資格とした。
 同時に運営者は他に複数のサイトをやっているので、投稿が重なった時にもそれがこなせるように、入力担当者にたのむ場合を考えて四百字800円という料金規約も設定した。
 これらの決まりは、結局ただ一人の会員のニーズを反映させたものあった。もともと、文芸同志会も「月報」を自分が必要なので、情報を集めたのを作ったのが始まりであった。
「詩人回廊」は、いざ作成運営をはじめたら、肝心のその人は病気で倒れ入院。会員ではなくなってしまった。そこで、もともとブログだから、編集人だけのものでいいや、と考えた。以前から自分の思弁を、どこかに記録して置こうとは考えてはいたからだ。
 そうして、幾人かの以前の会員に開設通知を送ったら、参加者が出てきた。そのため運営者は、会員についてよく知らないことが多い。
 こうして、ブログを共同で利用する作品発表専門の「詩人回廊」が出来た。会員になったものの、まだ作品を出さない人もいる。いつでも発表できると思うと安心して、なかなか、書かないという人もいる。たしかに原稿が来れば、できるだけ速やかに掲載するので、締め切りがないのである。
 運営していると、質問されることもある。ある人から、「不特定多数に公開したら、他人に使われてしまう可能性がある。著作権が守れるのか」というのがあった。自分は「作品として発表していることは明らかだし、かえって発表した実績となって、著作権の主張の根拠になるのではないか」と回答した。(作者には、発表画面をプリントして、送っている。これもパソコンをやらない人を前提にしていたからである。これが何よりの証拠文書となるのでは?)。その後、問い合わせがないので、そのままである。自分は、それほど多くの人に読まれるのは(そんなことはあるのだろうか?)いいことではないか、と思う。そのへんは実際には、どうなのであろう。わからない。

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文芸同人誌評「週刊 読書人(09年7月10日付)白川正芳氏

《対象作品》安芸宏子「生きものにご注意」(「雑木林」12号)、西村啓「名刺がなくなる日」(「作家」67号)、中村涼子「風の吹くまま」(「せせらぎ」創刊号)
「VIKING」七〇〇記念号《私の好きな(嫌いな)○○》特集より紫志野「私の好きなブログ」、福田紀一「謄写版印刷」
草原克由「ストイックな贋作家 小谷剛と同人誌『作家』」(「カプリチオ」29号)釋恵照「文芸批評・吉本隆明」(「勢陽」21号)
「広島の文芸」(広島市文化協会)、富貴高司「埴谷雄高生誕百年」(「多島海」8号)、橋爪博「伊良子清白と俳句」(「文宴」111号)、山之内朗子「人形夢幻(「まくた」264号)。(「文芸同人誌案内」掲示板・日和貴さんまとめ)

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2009年8月 6日 (木)

村上春樹「ノルウェイの森」が1千万部突破

 作家村上春樹さんが1987年に発表した小説「ノルウェイの森」(上下巻)の単行本と文庫本の総発行部数が、5日の増刷分で1千万部を超えたことが分かった。
 発行元の講談社によると、単行本は上下巻合わせて454万4400部。文庫本は旧版と新版が出ており、新版の増刷により計4巻で545万9千部に。累計で1千万3400部となった。
 同社は「映画化が発表されたころから売れ行きが伸びた。『1Q84』のヒットも影響していると思う」としている。(09.8.5 産経ニュース)

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2009年8月 4日 (火)

「西日本文学展望」(西日本新聞7月31日朝刊)長野秀樹氏

題「起承転々」
納富泰子さん「パートタイム」(「胡壷・KOKO」八号、福岡市)、牧草泉さん「氷海の航跡」(第二期「海」創刊号、福岡市)
暮安翠さん『青狐の賦-火野葦平の天国と地獄』(九州文学社)宮川行志さん「冬の蜥蜴」(「詩と真実」七二一号、熊本市)
第二期「海」より、由比和子さん「桜」、有森信二さん「螺旋階段」、織坂幸治さん「新ぼんくら談義・現代教育考」と詩「キンタマの詩」(「文芸同人誌案内」掲示板・日和貴さんまとめ)

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2009年8月 1日 (土)

文芸時評7月(東京新聞7月29日)沼野充義氏

川上三映子「ヘヴン」単純さの中に深い展望/松尾スズキ「老人賭博」(文学界)ドタバタに浮かぶ心情。
《対象作品》川上三映子「ヘヴン」(群像)/松尾スズキ「老人賭博」(文学界)/伏見憲明「桜団地一街区 爪を噛む女」(すばる)/青山七恵「山猫」(新潮)/村田沙耶香「街を食べる」(新潮)。

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