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2009年7月 2日 (木)

文芸時評<文学6月>読売新聞・失われた10年の「前史」

現代社会・人の深層描く(09年6月30日 文化部 山内則史記者)
《対象作品》村上春樹氏(60)の『1Q84』(新潮社、BOOK1・2)/伊井直行氏(55)『ポケットの中のレワニワ』(講談社、上・下)/矢作俊彦氏(58)の連載「常夏の豚」(文学界2007年1月号~)。
 英国の小説家ジョージ・オーウェルが『1984』を発表したのは1949年。独裁者に支配された暗黒の管理社会の到来を予言した近未来小説だった。その年に生まれた村上春樹氏(60)の『1Q84』(新潮社、BOOK1・2)は近過去小説。海外の文芸誌「A PUBLIC SPACE」の3年前のインタビューで氏は「95年からの日本の失われた10年がどんな重大性を持っていたか、私たちはまだ理解していない」という趣旨の発言をしているが、1984年と微妙にずれた「1Q84年」を仮構することで、10年の混沌(こんとん)へとつながっていく“前史”を照らし出した。
 まず、導入部の巧みさに圧倒される。スポーツクラブのインストラクター〈青豆〉の乗るタクシーが首都高で渋滞に巻き込まれる。車内に流れるのはヤナーチェク「シンフォニエッタ」。〈見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです〉と謎めいた物言いの運転手に教えられ、高速道路の非常階段を下りた彼女は、「9」から「Q」の世界へ移行している。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のエレベーター、『ねじまき鳥クロニクル』の井戸で繰り返された、垂直に下降するイメージ。瞬時に読者も、1Q84年の世界にいる。
 青豆の章と交互に、小説家志望の予備校講師〈天吾〉の章が出てくる。前景に青豆と天吾の、ささやかだけれど濃密な過去のつながり、すれ違い続ける現在が浮かび、背景に政治の季節をへて自給自足のコミューン、新宗教、カルト教団へ進む、理想と挫折の精神史が流れている。失われた10年の入り口に当たる95年に阪神・淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件が相次いだことを重視する作家は、個人と社会、それらの深層を見ようとする。また、天吾が父と向き合う場面は、過去の村上作品にはなかった、日本の近代文学の伝統に連なる要素。新鮮だ。
 けれど、青豆と天吾がそれぞれに誰かと交わすダイアローグによって物語を駆動させる手法には、限界も感じる。三人称の客観的視点から、例えばカルト教団内部の狂気が直接描写されることはない。また、青豆が命を奪うべく教団リーダーと対峙(たいじ)する場面は作中最大のヤマ場だと思うが、この世には絶対的な善も絶対的な悪もないというリーダーの言葉に青豆が理解を示し、悪をめぐる対話は、その核心に深く降りていくことがない。あるいは、こうした様相を通してしか、現代の悪をリアルに捉(とら)えることは難しいのかもしれない。

 一方、伊井直行氏(55)『ポケットの中のレワニワ』(講談社、上・下)は、村上氏とまた違ったアプローチで、この社会の変容を捉えている。小学3年の時、同じクラスにいたベトナムの少女ティアン。アジア系の人々の多い団地の住人だった彼女は、十数年の時間を経て、会社の正社員として派遣社員の〈俺〉の前に現れる。〈恋人以上、友達未満〉の2人の、濃いような淡いような不思議な関係を軸に物語は進む。怪しい仕事に手を染めているらしいティアンの孤独、振り回され続ける俺、引きこもる俺の義弟、そして空想の中で存在感を増していく生き物〈レワニワ〉。一見つかみどころのない人間関係の中から、社会を覆う空気の重さと希薄さが、ゆるやかにあぶり出されていた。

 今月完結した矢作俊彦氏(58)の連載「常夏の豚」(文学界2007年1月号~)は、中国人と米国人のハーフの環境テロリストと、その女の相棒の豚とのスリルと危険だらけの旅を、豚の視点から痛快に描く。下北半島から三陸海岸、茨城県つくば市、東京へ南下するひとりと一匹は、国家や組織の謀略に巻き込まれ、ひなびた東北の片田舎などで、スパイ映画さながらの派手なアクションを展開する。軍事や映画、食に関する蘊蓄(うんちく)を傾けたかと思えば、果敢に敵に体当たり、自分は一体何者かと時々自問する豚の語りが秀逸だった。

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