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2009年6月 3日 (水)

5月の新聞の「文芸時評」から

 5月の新聞の「文芸時評」では、日本文学における国際化への進化を指摘する論評があった。
 東京新聞で沼野充義氏は、シリン・ネザマフィや楊逸の文芸誌での活躍に、『「単一民族」神話がいまだに根強い日本列島に天使が舞い降りて来た。多言語という名の天使が。今月の文芸誌を読んでいて、そんな幸せな感覚にとらわれた』と書いている。
 毎日新聞では、川村湊氏がネザマフィの「白い紙」において、『「私」という主語、一人称がほとんど使われていない。これは、日本語の文章の特質(主語がなくても文として成立する)をよく理解した作者の意図的な技法といえるだろう』と指摘。
 これらは、「詩人回廊」の『キャラクターズ』に係る評論において、のべているように、西欧中心の文学世界では、日本文学は「ガラパゴス島」的な辺境的な位置の芸術にすぎないが、日本の文学界においては、翻訳文化の発達によって、世界文学の坩堝が存在するということを裏付ける現象ともいえるのではないか。
 じつはこの視点を得たのは、自分は外国がまったく使えないことによる。大学では、英語が必修で、選択第二外国語でフランス語、専門の経済学では、用語としてのドイツ語、英語の単語をかじるだけで済ましてしまったのである。それらは単位獲得のためのにわか知識で、卒業すればすべて忘れてしまった。
 にもかかわらず、世界各国の豊富な翻訳本の存在によって、日本語によって世界の文学の動向が読み取れるのである。これは自分の推定であるが、そういう国は世界に他にないであろうと思う。世界の文学の状況を知りたければ、まず日本語を知ればそれが可能である。
 ただし、それには一つの条件がある。同じ作品について、名訳から迷訳、下手訳までいろいろな翻訳者のものを読むことである。自分は外国の作家では、D・H・ロレンス(代表作「チャタレイ夫人の恋人」)と、ジョセフ・コンラッド(有名なのでは映画「地獄の黙示録」の原作「闇の奥」だが、代表作といえば「ロード・ジム」か「密偵」)のファンである。
 ロレンスの訳では福田恒存、伊藤整か。コンラッドの訳なら中野好夫などが名訳のうちであろうか。
 しかし、それだけでは、あまりにも消化しすぎてあって、原作の実感を得ることは難しいのである。何といっても、原文を直訳的に訳す下手な翻訳者のものを読むと、首をひねるような奇妙な表現に出会う。その時に、なぜそのような表現になるのかを、しみじみ考えると、なんとなく原作者が使った表現の味わいが推測できるのである。
 時には、誤訳や迷訳にケチをつける書きものに出会うが、自分はそうした翻訳の存在価値を一番認めるものである。
 ただし、ミステリーなどの娯楽物は名訳者のものがよい。田中小実昌や佐倉潤吾などは絶品で、訳者の名で本を選ぶことが多かった。

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