谷川俊太郎さん 喜寿迎え長編詩集
きれいな野花 咲かすだけ
死について考えることも。「死ぬってどうなんだろう、魂だけになるのはどんな感じなのかしら、と興味津々みたいな感じ。痛くなく死にたいと思うから、体を鍛えとかないといけないですよ」(都内の自宅で)=中司雅信撮影 谷川俊太郎さん(77)の最新詩集『トロムソコラージュ』(新潮社)は、「小説的なものが苦手だった」という詩人が初めて詩と物語との融合を模索した長編詩集だ。戦後を代表する詩人は、喜寿を迎えた今、詩そして言葉とどう向き合っているのだろうか。(金巻有美)
物語の導入
<私は立ち止まらないよ/私は水たまりの絶えない路地を歩いていく/五百年前に造られた長い回廊を/読んでいる本のページの上を/居眠りしている自分自身を歩いていくよ>
最新詩集は、ノルウェーの街で即興的に書きつづった200行に及ぶ表題作をはじめ、長編詩7編を収める。三途の川を思わせる大河が舞台の「臨死船」、映画の一コマのような場面から世界が広がる「この織物」……。どの詩も、物語やドラマのような展開をはらむ。
ずっと物語は苦手だった。「昔のことは覚えていないし、大事じゃない。だから物語のディテールが書けないんですよ」。しかし、年をとるにつれて「人間の一生は、どうしてもある連続したものとしてとらえざるを得ない」と感じるようになったのが、詩に物語を取り入れるきっかけになった。「小説家が『登場人物が勝手に動き出す』って言うあれをちょっと経験しましたよ」とちゃめっ気を見せる。
不幸がない
処女詩集『二十億光年の孤独』から60年近く。「ピーナッツ」の翻訳や「鉄腕アトム」の作詞など、常に新しく、鋭敏な感受性から生まれる言葉は、多くの人に愛されてきた。しかし、自身には母に愛されて育った恵まれた生い立ちに、ずっと引け目があったという。「他人の不幸に対し、自分にはそういう体験がない、感覚が及ばない、という後ろめたさは終始一貫ある」
一方で、自分には語るべきつらい物語はないという居直りこそ、詩人を「とにかく他人を楽しませる」方向に向かわせた。「僕は自分を語る気がないし、自分に興味もない。日本語の豊かさに分け入って、“恐山の巫女(みこ)”のように、人の声を自分の中でいかに編集するかが詩作なんです」
ナンセンス
そんな詩人は、「最初から自分にとっては詩より生活の方がはるかに大事」など大胆なことを平気で口にする。「生活を犠牲にしてすばらしい芸術作品を、という考えはまったくなかった。僕は初めから言葉を信用してないんです」と話し、こう続けた。「自分の心情なんて絶対言語にならないと思ってたし、書かれたものはどこかにうそがあるという意識がありますね」
そんな考え方が一つの形になったのが、1973年に出した「ことばあそびうた」。
<うそつききつつき/きはつつかない/うそをつきつき/つきつつく>
意味やメッセージを伝えるだけでなく、音韻の組み合わせで「職人的に」詩を書くようになった。「僕は『メッセージは何ですか』と言われる詩は失敗作だと思う。ナンセンスってすごく大事。意味が読み取れなければ魅力がないのなら詩じゃないや、って」
ここ十数年は、国内外への寄付や、長男で音楽家の賢作さんとともに行う朗読会など、チャリティー活動にも積極的だ。「恵まれない人のことを作品に反映するより、お金を出すことが大事だと考えてるんです」
90年代の一時期、「自分の人間的欠点と詩を書くこと」のつながりに気づき、詩作が「非人間的なこと」に思えて遠ざかっていたこともある。しかし、今、詩を書く時間は「息抜きであり、すごく楽しみな時間」だという。そんな境地に至った詩人が目指す詩とは、どんなものなのか。
「きざったらしいけど、道端に咲いてる名前もない野花。ただきれいに咲いて、命がきれいだ、みたいな存在を作りたいだけなんです」「だって、本当の美辞麗句は人を動かすんだから」
進むことをやめない姿に、詩の一文が重なった。<私は立ち止まらないよ>――。(09年6月25日 読売新聞)
《メモ》谷川詩人が人間の存在として、愛情に満たされた存在感をもつ詩人であることは、興味深い。そういえば宇宙を肯定的にとらえている。孤独を、素直に孤独ととらえる精神性はここにあるのだろう、と推察する。生活に重点をおいているというのも皮肉な現象であるいが、多くの読者を獲得していることと、その工夫において納得できる。文学は生活を豊かにするものであれば良い(お金だけの話ではない)。凡才にも感銘を与える天才の言葉、自分にとって、今年読んだ記事で一番有意義なインタビューに読めた。
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